結論:「勝ち確定」の企画を、勝ち確定に見せなかった脚本の強さ(評価★★★★☆)
見るべきです。前作も原作も要りません。SFが苦手でも、1980年代の映画を一本も見ていなくても、入口で迷う人はほぼいないでしょう。ただし、「全編が完璧な脚本」という世評までは受け取りません。序盤は説明に時間を使いすぎますし、物語の核にある「母が息子に惹かれる」という仕掛けは、扱いを間違えれば成立しない危うい設定です。それでも星4つにするのは、その危うさを抱えたまま116分を走り切る構成の組み方が、見事だからです。
この映画は、完成品の顔をしていますが、企画の段階では何度も断られています。英語版Wikipediaによると、企画は40回ほどスタジオに断られました。その背景にあるのは、当時の下品なコメディに比べて大人しすぎる、という見方だったそうです。「面白い設定」だけでは企画が通らなかった作品が、なぜ1985年の世界興行収入1位になったのか。そこを脚本の側から見ていきます。
採点の内訳
- 脚本:★★★★☆ 設計は緻密だが序盤の説明が長い
- 人物:★★★★☆ 全員の動機が一本の線に収まる
- 独創性:★★★★☆ タイムトラベルに「親の恋」を重ねた
- 狙いの達成度:★★★★★ 娯楽映画として狙いが完全に形になった
- 間口の広さ:★★★★★ 予備知識ゼロで入れる
作品情報
- 日本公開:1985年12月7日(アメリカでの公開は1985年7月3日)
- 監督:ロバート・ゼメキス(脚本はゼメキスとボブ・ゲイル)
- 主な出演:マイケル・J・フォックス、クリストファー・ロイド、リー・トンプソン、クリスピン・グローヴァー、トーマス・F・ウィルソン
- 上映時間:116分
- 製作費は約1,900万ドル。全世界の興行収入は約3億8,110万ドルで、1985年の世界最高。日本の配給収入は36億5,000万円
- 1986年のアカデミー賞で音響効果編集賞を受賞。脚本賞(オリジナル)、音響、歌曲の3部門でノミネート。2007年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録
見る前に知っておきたいこと
- シリーズの1作目です。続編は『PART2』(1989年)と『PART3』(1990年)で、見る順番は公開順で問題ありません。まずこの一本だけ見れば、物語は一度きれいに閉じます
- 本作はもともと続編を前提に作られた映画ではありません。日本語版Wikipediaによると、続編を求める声が起きたのは、1987年のビデオ化の際に付いた「TO BE CONTINUED…」のテロップがきっかけです。そのため、ラストの一場面だけは続編の布石として浮いて見えます(理由は後述)
- 主人公マーティ役のマイケル・J・フォックスは、最初に撮影を始めた俳優ではありませんでした。最初にエリック・ストルツで撮影が始まり、約6週間で交代しています。この経緯を知っていると、作品の見え方が少し変わります
- テレビ放送の日本語吹替版は複数あり、局によって声の配役が違います。吹替で見る人は、版ごとの違いを意識すると別の楽しみ方ができます
最小限のあらすじ
1985年のカリフォルニア州ヒルバレー。高校生のマーティ・マクフライは、科学者ドクが作ったデロリアン型タイムマシンの実験に立ち会います。事故でマーティは1955年に飛ばされ、帰るための電力もありません。しかも彼が干渉したせいで、若き母ロレインが父ジョージではなくマーティに惹かれ始めます。両親が結ばれなければ自分が生まれない。マーティは1955年のドクの助けを借りて、両親を結びつけ、1985年に戻る方法を探します。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の脚本はなぜ強いのか|構成と伏線を分析する
三幕のどこにも「寄り道」がない
物語の骨格は、一本の問いに集約されています。「マーティは1985年に帰れるのか」と「マーティは自分の存在を守れるのか」の二つです。この二つが、1955年に着いた時点から最後まで同時に走ります。帰るにはドクの協力と電力が要り、存在を守るには両親の恋が要る。そして、その二つの期限が同じ夜のプロムと時計台の落雷に重なる。ここが、この脚本のもっとも優れた設計だと私は見ます。
多くの時間もの映画は、「過去で何かをして、現在に戻る」という手順の途中で、別の目的が顔を出して散らかります。この映画は、過去での行動の理由を「存在を守る」の一点に絞っているので、場面ごとの目的がぶれません。両親を近づける作戦も、ドクとの電力の計画も、どちらも最終夜の一点に収束します。三幕構成で言えば、1955年に着いてから母が息子に惹かれ始める転換が第一幕の終わり、プロムの夜までが第二幕、落雷と帰還が第三幕です。間延びする箇所がなく、娯楽映画の手本として使える形です。
1985年の冒頭が、帰還後の答え合わせになっている
この脚本が上手いのは、冒頭の1985年を、ただの導入に終わらせていない点です。マーティが帰ってきた1985年では、父ジョージは小説家として成功し、ビフは自動車整備の仕事をしている立場になっています。過去を変えた結果が、出発点の世界との比較で一目で分かる。観客は説明を聞かなくても、「何が変わったか」を最初の映像と照らして理解できます。
もう一つ、ドクが銃撃を免れる流れも見逃せません。日本語版Wikipediaによると、ドクはマーティが残した手紙を読んでいたため、防弾対策をしていて無事でした。冒頭で絶望的に見えた出来事を、物語の終盤で「過去への干渉の成果」として回収する。悲劇を回避するために時間旅行を使うという筋は、観客が一番見たい種類のカタルシスです。
世間の高評価と私の評価のずれ
公開当時の批評は概ね好意的でした。英語版Wikipediaによると、ロジャー・イーバートは人間味と魅力と意外性を評価し、フォックス、ロイド、トンプソン、グローヴァーの演技も広く称賛されています。集計サイトでは、ロッテン・トマトの支持率が93%(批評家119人)、メタクリティックが88点(27人)です。ここまでの数字は、私も妥当だと考えます。
私が少し距離を取るのは、「完璧な脚本」という褒め方です。完璧に見えるのは、各場面の目的が一点に絞られているからで、細部を一つずつ突くと、都合のよい箇所は残っています。次の節で、その具体的な箇所を挙げます。
※ここから結末に触れます。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はつまらない?ひどいと言われる理由と欠点を辛口評価
序盤の説明が長い|最初の30分は評価が割れる点
英語版Wikipediaによると、批評家のコーリスとモルティンは、説明の多い導入部を作品のいちばん弱い部分と見ました。後半のほうが強いという評価です。これは私も同意します。1985年のマーティの家庭、学校、ドクの実験、タイムマシンの仕組みを順に見せる時間が長く、観客は事故の瞬間までに多くの情報を処理させられます。
ただ、この説明の量には役割があります。のちに1955年で起きる「ズレ」を、観客が確かめられるようにするための仕込みです。必要な仕込みではあるものの、見せ方がもう少し短くても成立したはずです。私はこの導入を、設計は正しいが、手際が最良ではない部分だと見ています。
母と息子の設定は、危うい綱渡りである
この映画の最も大胆な仕掛けは、若い母ロレインが息子マーティに惹かれることです。日本語版Wikipediaによると、この内容はディズニーが社のブランドに合わないと判断して断った理由の一つでした。つまり、企画段階から「危うい」と見られていた設定です。
私が評価するのは、この設定を笑いとして成立させるために、「母を恋愛対象にしない」ための歯止めを物語の中に置いていることです。マーティは母の気持ちを両親の恋へ誘導する側に回り、観客もその方向で見るので、母の好意は「解決すべき障害」として扱われます。一方で、この仕掛けが成立するのは、あらすじに沿った範囲に限られます。もし二人の関係がもう一歩進んでいたら、一気に笑えなくなる綱渡りで、その危うさを意識せずに「すべて完璧」と褒めるのは、私は違うと思います。
ジョージの変化は、一回の勝利で済んでいる
人物の面では、父ジョージの変化が一番の弱点です。臆病だったジョージが、プロムの夜にビフを倒し、ロレインとキスをする。これで彼の人生が成功へ転じます。物語としては爽快ですが、人物の変化としては「一度の成功体験がすべてを変えた」という設計になっています。マーティがそう仕向けた面もあり、本人の内側から変わった物語にはなっていません。
これは欠点であると同時に、映画の意図でもあります。ジョージの変化が複雑だと、116分では回収できません。つまり、主人公マーティの目的を成立させるために、父の内面を意図的に浅く保った構造です。私はこの割り切りを許しますが、「人物の深さ」を求める人には物足りないでしょう。
ラストのひとことが、物語を「閉じ切らない」
ビフが整備の仕事に就き、ジョージが成功者になった世界で、物語は一度、気持ちよく閉じます。そこへ、ドクが2015年から再び現れ、マーティとジェニファーに未来の問題を解決してほしいと頼みます。日本語版Wikipediaによると、このあとの続編は、1987年のビデオ化で付けられた「TO BE CONTINUED…」のテロップがきっかけで求められるようになったものです。
映画単体として見ると、ここは物語の完成度を少し下げています。直前までが「過去の干渉で現在を直す」という閉じた構造だったのに、最後の一場面が、未来へ話を開いてしまうからです。公開時点で続編が決まっていなかったのなら、なおさら、結末の収まりは悪く見えます。だから私は、この一場面を「本編の一部」とは受け取らず、シリーズへの入口として切り離して見ます。
批評家が指摘した「型にはめた感じ」
英語版Wikipediaによると、批評家のベンソンは、作りすぎで掘り下げが足りず、結末が空虚で緊張感も乏しいと批判しました。これに対し、シスケルは、未来が不確かであること自体が緊張を生んでいると反論しています。また、アタナシオは、広い層に受けるように機械的に設計された部分があると指摘しました。
私は、この「設計された感じ」という指摘には、半分うなずきます。確かに、この映画は全体が計算で組み立てられていて、予想外の逸脱はほとんどありません。ただ、娯楽映画にとっては、その計算が最大の武器です。観客が次に見たいものを、ちょうどよい速さで出してくる。それを「型にはめた」と呼ぶか、「手際がよい」と呼ぶかは、観客が映画に何を求めるかの違いです。
この映画を見るべき人・見なくていい人
- 見るべき人:映画の脚本の組み立てを学びたい人。一本の問いで120分近くを引っ張る手本として、今も通用する
- 見るべき人:「名作と言われるけれど、古い映画は敷居が高い」と感じている人。予備知識は要らず、入口の広さは最高の部類
- 見るべき人:続編『PART2』『PART3』に進む予定の人。まず公開順にこの一本で世界観をつかむのが確実
- 見なくていい人:人物の内面の変化を丁寧に描く映画を求める人。この映画は、変化の説得力より、物語の設計の巧さで見せるタイプ
- 見なくていい人:最新のSF映画のような、複雑な時間理論の整合性を楽しみたい人。この映画の面白さは理屈の精密さではなく、目的が一点に絞られた構成にある





