結論:罠の見せ場より、隣家の老人に賭けた脚本が勝つ(評価★★★★☆)
『ホーム・アローン』を「罠だらけのドタバタ喜劇」とだけ記憶しているなら、それは半分しか見ていません。クリスマスの時期に家族で見るなら、迷わず見ていい一本です。ただし、泥棒が痛い目に遭う爽快さだけを期待すると、物語の重心が別の場所にあることに戸惑うでしょう。この映画を名作の側に押し上げたのは罠の仕掛けではなく、隣人の老人マーリーと少年ケビンが和解する筋のほうです。一方で、母親が帰ってくるまでの旅路や、泥棒の頑丈さには、ご都合主義がはっきり残っています。そこを差し引いても、評価は4です。
採点の内訳
- 脚本:★★★★☆ 置き去りから罠への運びが無駄なく進む
- 人物:★★★☆☆ ケビンと老人は立つが、家族は記号的
- 独創性:★★★☆☆ 設定は鮮烈。ただ展開は王道の範囲
- 狙いの達成度:★★★★☆ 喜劇と家族愛を両立させた
- 間口の広さ:★★★★★ 前提知識がいらず、誰でも入れる
平均は3.6で、四捨五入すると4です。作品の価値に照らして動かすことはせず、そのまま4にしました。
作品情報
- 日本公開:1991年6月22日に先行公開、7月6日に全国公開(アメリカ公開は1990年11月16日)
- 監督:クリス・コロンバス
- 脚本・製作:ジョン・ヒューズ
- 主な出演:マコーレー・カルキン、ジョー・ペシ、ダニエル・スターン、キャサリン・オハラ、ジョン・ヒアード
- 上映時間:103分
- 製作費:1800万ドル
- 興行収入:全世界で約4億7668万ドル、日本では約34億円
- 主な受賞:アカデミー賞の作曲賞と歌曲賞にノミネート(受賞はしていない)。2023年にアメリカ議会図書館の国立フィルム登録簿に選ばれた
見る前に知っておきたいこと
- シリーズの1作目で、前提知識は不要です。続編の『ホーム・アローン2』は1992年に公開されました
- 脚本・製作のジョン・ヒューズは、家族旅行の準備をしているときに「10歳の息子が家に置き去りにされたらどうするか」と考えたことが発想の出発点だった、と英語版Wikipediaにあります
- 監督のクリス・コロンバスは、マーリーという人物を足して物語に情緒の重みを加えたと伝えられています
- 音楽はジョン・ウィリアムズ。主題歌「Somewhere in My Memory」は、アカデミー賞の歌曲賞にノミネートされました
- 日本語吹き替えは複数の版があります。版によって訳や声が違うため、見比べたい人は版の違いを確認してください
最小限のあらすじ
クリスマス休暇にパリへ旅行する大家族マカリスター家で、末っ子の8歳ケビンは、兄との喧嘩の罰として屋根裏に寝かされます。翌朝、停電で目覚ましが狂った一家は大慌てで空港へ向かい、ケビンを家に置き去りにしてしまいます。ケビンは自由を満喫しますが、留守宅を狙う泥棒のハリーとマーヴが迫ります。ケビンの目的は、家族が戻るまで、自分の力で家を守ることです。
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置き去りの設定が、説明なしで観客を味方につける
この映画の最初の強みは、前提の置き方です。大家族が一斉に動く朝の騒ぎの中で、子どもが一人取り残される。この状況は「そんなことがあるか」と疑う前に、停電で目覚ましが狂うという小さな偶然で処理されます。偶然に頼っているのは事実ですが、頼る場所が物語の入口だけに限られているのが上手いところです。入口の偶然は観客が受け入れやすく、そのあとは、ケビンの行動によって話が進みます。
さらに、ケビンが屋根裏で「家族なんていなくなればいい」と願う流れが、置き去りに意味を与えます。願いが叶ったように見えるからこそ、自由を楽しむ前半と、家族を恋しがる後半が一本の線でつながります。
隣人マーリーが、喜劇を家族の物語に変える
この脚本でいちばん評価したいのは、マーリーです。兄のバズが「殺人鬼だ」と吹き込んだ隣家の老人は、前半ではケビンの恐怖の対象です。ところが教会で話すと、その噂は誤解で、本人は息子と疎遠になり、聖歌隊にいる孫娘にも会えずにいる人物だと分かります。ケビンは、息子と仲直りすればいいと勧めます。
この場面の構造が優れているのは、ケビンが「置き去りにされた子ども」であると同時に、「家族の和解を口にする側」に立つ点です。家族を恋しがる少年が、家族と離れた老人に言葉をかける。ここで物語は、ただの泥棒撃退から、家族がそろう意味を問う話に切り替わります。コロンバス監督がこの人物を足したと英語版Wikipediaにあることを考えると、この映画の感情の芯は、監督の手が入った部分にあると私は読みます。
伏線の回収は、結末で三つ同時に決まる
※ここから結末に触れます。
終盤、捕まったケビンを救うのは、マーリーです。シャベルで泥棒を殴り、警察に引き渡す。前半で「怖い人」として張られた印象が、ここでは「頼れる人」として回収されます。続く朝、母ケイトが先に帰り着き、あとから家族もそろって再会します。そしてマーリーは息子夫婦と孫娘に迎えられ、ケビンと互いに手を振り合います。
家族の再会、老人の和解、泥棒の逮捕という三つの決着が、クリスマスの朝というひとつの時間にまとめて落ちる。この収まり方は、脚本として美しいと言っていい部分です。最後にケビンがバズの部屋を荒らした件で面倒な目に遭うという落ちまで付き、感動で終わりそうな空気を、家族喧嘩の日常に戻します。甘さの後に、軽い皮肉を残す終わり方です。
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罠は「8歳の工夫」にしては大がかりすぎる
ここからが辛口です。ケビンが家中に仕掛ける罠には、批評家の側から早くから疑問が出ていました。ロジャー・イーバート(シカゴ・サンタイムズ)は星2.5(4点満点)をつけ、あの罠を、予算のある映画だから実現できた大がかりな仕掛けで、8歳の子どもなら誰でも思いつける程度の発想だと見ました。物語が非現実的すぎて、ケビンの身を案じる気持ちが育たないとも書いています。カルキンは評価した上での指摘です。
私もこの指摘は的を射ていると思います。罠の発想が「8歳のひらめき」に収まっていれば、観客は工夫に感心できます。ところが仕掛けが家全体に及ぶと、感心の対象が少年の知恵から、美術と段取りの豪華さに移ってしまう。これは人物の魅力を、仕掛けの規模が追い越してしまった状態です。
泥棒への仕打ちが、笑いの許容量を超える
もうひとつの論点は、暴力の量です。オーウェン・グライバーマン(エンターテインメント・ウィークリー)は評価をDとし、本作を大人をいじめ抜く残酷な見世物のように受け取りました。ロサンゼルス・タイムズのピーター・レイナーは、ギャグが苦い後味を残すと書いています。
私の見方は、少し違います。泥棒は、ケビンが一人だと見抜いて報復を決めた側です。だから反撃の動機は通っています。問題は動機ではなく、泥棒が負う被害の重さに対して、画面の言葉づかいが「喜劇」のまま変わらない点です。被害が増えるほど、笑いの許容量を超えていく。ここは、好みで割れる箇所として、はっきり欠点に数えます。
母の帰宅劇は、本筋との温度差が大きい
三つ目は、母ケイトの旅です。パリで2日分の便が満席だと分かり、ダラスへ向かい、さらにスクラントンでシカゴ行きの便も満席。最後にガス・ポリンスキーが率いるポルカ楽団の車に乗せてもらう、という運びです。母の必死さを示すという役割は理解できますが、そのたびに新しい障害と偶然の助けが現れる構図で、ケビンの側の緊張感と温度差が出ます。
しかも、この旅が実際に物語を動かす部分は小さく、家族は最終的に、ダラス経由の便でクリスマスの朝に帰宅します。母の旅は、ケビンの危機に間に合うかという緊迫を作る装置になりきれていません。ケビンが一人で泥棒に立ち向かう決戦と、母のロードムービー風の寄り道が、並行して走るだけで噛み合っていない。ここが、この脚本の最も目立つ弱点です。
世間の評価と、私の評価はどこがずれるか
英語版Wikipediaによると、公開当時の批評家の評価は賛否が混ざっていました。集計サイトのロッテン・トマトでは、批評家の支持率は66%、メタクリティックでは100点満点で63点です。一方で、シネマスコアでは観客の評価がAと伝えられています。つまり、批評家は中程度、観客は高評価という構図です。
北米では1990年の年間興行収入1位となり、全世界で約4億7668万ドルを稼ぎました。のちにクリスマス映画の定番として扱われ、2023年には国立フィルム登録簿に選ばれています。私の評価が批評家より高いのは、罠の場面ではなくマーリーの筋を軸に脚本を測っているからです。罠だけを物差しにすれば、イーバートやグライバーマンの指摘どおり、評価は下がります。
この映画を見るべき人・見なくていい人
- 見るべき人:クリスマスに、家族や子どもと見られる一本を探している人。置き去りの設定とマーリーの和解の筋を、構成の面から味わいたい人
- 見るべき人:シリーズ『ホーム・アローン2』に進む前に、1作目の土台を押さえたい人。前作の知識は要りません
- 見なくていい人:罠の仕掛けと泥棒の痛がる場面だけを楽しみたい人。物語の重心が家族と和解にあるので、期待とずれます
- 見なくていい人:スラップスティックの暴力が苦手な人。泥棒が受ける被害は、コメディとしては重い部類です





