映画「劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!
社会現象と化した『無限列車編』から数年、我々が待ち焦がれたものが、ついにスクリーンに解き放たれた。
だが、これは単なる続編ではない。
壮大な物語の終焉を告げる、最終戦争の開幕を告げる号砲だ。
上映時間155分。これは、ufotableが我々の感情と五感を徹底的に揺さぶり尽くすという、覚悟の表れである。
本作は、約束された壮絶な死闘を描き切るだけでなく、このシリーズが内包する根源的な「闇」と「悲劇」の核心へと、観る者を引きずり込んでいく。
そして、その副題「猗窩座再来」。
これがまた、実に巧みで、残酷な一手だ。
これは単なるプロットの告知ではない。制作陣が我々の心に深く刻まれた煉獄杏寿郎の死というトラウマの古傷を、意図的にこじ開けにきているのだ。
チケットを買う前から、我々はすでにこの物語の当事者であり、これは個人的な「ケリをつけるべき戦い」なのだと、無意識のうちに刷り込まれている。
さあ、覚悟はいいか。これは、魂を削り合う物語の始まりだ。
映画「劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来」の個人的評価
評価: ★★★★☆
映画「劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来」の感想・レビュー(ネタバレあり)
絶望への序曲:産屋敷の「切り札」
物語の幕開けは、物理的な衝突ではなく、静かな、しかし刃物のように鋭い「思想の決闘」から始まる。
病に蝕まれ、もはや自立もままならない鬼殺隊当主・産屋敷耀哉と、見た目は完璧な青年の姿を保ち続ける全ての鬼の始祖・鬼舞辻無惨。
この二人の対峙は、本作が描こうとするテーマの全てを凝縮している。
肉体的には完璧だが、その存在は孤独で自己中心的。
肉体的には崩壊寸前だが、その意志は千年続く鬼殺隊の想いと共に在る。
無惨が「永遠」を信じる己の肉体に絶対の自信を見せるのに対し、産屋敷は静かに告げる。「想いこそが永遠であり不滅なものだ」と。
そして、対話が決裂した瞬間、産屋敷は最後の、そして最狂の策を発動する。
自らの妻と娘たちを道連れにした、屋敷全体を巻き込む大自爆。
通称「産屋敷ボンバー」。
この自己犠牲による一撃は、無惨を殺すためではない。彼の足を止め、罠に嵌めるための一手だ。
この戦略の真に恐ろしい点は、無惨の価値観の根底を揺るがしたことにある。
自己の存続こそが至上である無惨にとって、大義のために自らの命どころか家族の命さえも躊躇なく「駒」として使う産屋敷の精神性は、理解不能な「狂気」そのもの。
彼の内なる独白が、その衝撃を物語っている。
産屋敷の肉体的な「弱さ」こそが、自己保存という本能から解き放たれた、純粋な戦略的思考を可能にした最大の武器だったのだ。
この開幕の数分間で、本作は最終決戦の命題を叩きつける。
真の強さとは不滅の肉体にあらず。受け継がれる意志と、自己を超えたもののための犠牲の精神にこそ宿るのだ、と。
地獄の遊園地へようこそ:映像技術の暴力
産屋敷の罠が発動し、鳴女の血鬼術によって鬼殺隊士たちが引きずり込まれる無限城。
ここからが、ufotableの真骨頂だ。
もはやこれは背景美術ではない。M.C.エッシャーのだまし絵を、悪夢の中で再構築したかのような、それ自体が一個の生命体である。
ねじれ、反転し、落下する。
一部の観客から「乗り物酔いした」という報告が上がるのも当然だ。
これはもはや映画ではなく、観る者を強制的に引きずり込む絶叫アトラクション。その圧倒的な没入感は、アニメーションという表現媒体の一つの到達点と言えるだろう。
2Dの作画と3D CGIの境目が完全に消失した空間で、縦横無尽に動くカメラワークは、これから始まる死闘の混沌を完璧に予感させる。
呼吸法や血鬼術が放つ光の粒子一つ一つに至るまで、その美しさと密度は常軌を逸しており、「映像美」という陳腐な言葉では追いつかないほどの情報量が、スクリーンから叩きつけられる。
三元中継:復讐と、裏切りと、因縁の三つの死闘
無限城という迷宮に分断された鬼殺隊。
ここから物語は、それぞれが独立した短編映画のような密度を持つ、三つの戦いを並行して描いていく。
蝶の最後の舞:胡蝶しのぶ 対 上弦の弐・童磨
これは、静かな怒りが燃え盛る悲劇のバレエだ。
姉の仇である童磨と対峙するしのぶ。
屈託なく、悪びれもせず、ただ捕食と遊戯のために人を殺す童磨のサイコパス的な陽気さが、しのぶの内に秘めた氷のような殺意を際立たせる。
鬼の頸を斬る筋力を持たないしのぶの、毒を仕込んだ刀による一点突破の突き技。
それを軽々とあしらい、美しくも致死的な氷の血鬼術で応戦する童磨。
ufotableの描くエフェクトは、蟲の舞の優雅さと、氷の結晶の鋭利さの対比を見事に描き出す。
そして、追い詰められたしのぶが童磨に吸収される瞬間。
だが、それこそが彼女の最後の策だった。一年以上もの歳月をかけ、自らの全身を「歩く藤の花の毒」へと変貌させていたのだ。
その自己犠牲は、産屋敷のそれと同じく、自らの肉体を未来へ繋ぐための「駒」とする、壮絶な覚悟の表れであった。
孤独な雷鳴の咆哮:我妻善逸 対 上弦の陸・獪岳
本作の「瞬間最大風速」は、間違いなくこの戦いだ。
かつての兄弟子でありながら鬼に堕ち、師である桑島慈悟郎を自決に追い込んだ獪岳。
その裏切りに対する善逸の怒りは、普段の臆病な彼を、研ぎ澄まされた復讐の刃へと変貌させる。
「爺ちゃんは可哀想なんかじゃない」
この一言に、善逸の全ての想いが凝縮されている。
雷の呼吸の壱ノ型しか使えない善逸と、それ以外の全ての型を使う獪岳。
黒と金の稲妻が交錯する戦闘シーンは、圧巻の一言。
そして極限状態の中、善逸が自ら編み出した漆ノ型「火雷神(ほのいかづちのかみ)」。
画面を切り裂く一閃。
その瞬間の作画、音響、演出。全てが完璧に噛み合ったこのシークエンスは、年間ベスト級のアニメーションと言っても過言ではない。
この三つの戦いは、単なるアクションの見本市ではない。
それぞれが「過去との向き合い方」を象徴している。
しのぶは、姉の死という「過去のトラウマ」への直接的な復讐。
善逸は、師を裏切った兄弟子という「過去の汚点」の清算。
そして炭治郎は、煉獄を殺した猗窩座という「過去の敗北」の克服。
無限城は、彼らにとって物理的な迷宮であると同時に、自らの過去と対峙させるための心理的な試練の場でもあるのだ。
炎柱の残響:竈門炭治郎&冨岡義勇 対 上弦の参・猗窩座
そして、本作のメインイベント。
煉獄杏寿郎の仇、猗窩座との再戦だ。
炭治郎のヒノカミ神楽と、義勇の水の呼吸。二つの異なる呼吸法が連携し、武の極致を求める猗窩座と渡り合う様は、戦術的にも見応え十分。
この戦いは、二人を極限の先へと進化させる。
義勇の頬に発現する痣。
そして、父の記憶からヒントを得て、闘気を消し、相手の内部を見通す「透き通る世界」へと至る炭治郎。
怒りや憎しみといった感情を捨て去り、「無」の境地に至ることで、猗窩座の闘気感知を無力化する。このロジックは、少年漫画のパワーアップ展開として非常に秀逸だ。
そして遂に、炭治郎の刃が猗窩座の頸を捉える。
誰もが勝利を確信した、その瞬間。
物語は、観客の予想を裏切る。
頸を斬り落とされたはずの猗窩座が、闘い続ける。それどころか、失われた頭部を再生させようとさえするのだ。
この絶望的な展開こそが、本作で最も物議を醸す、あのシークエンスへの引き金となる。
大減速:狛治という男の悲劇
猗窩座の頸を斬った。カタルシスは最高潮。
観客が勝利の余韻に浸ることを、この映画は許さない。
時速200kmで疾走していた物語は、ここで急ブレーキを踏む。
そして我々は、猗窩座の、いや、人間「狛治(はくじ)」の、あまりにも悲痛な過去の物語へと強制的に引きずり込まれる。
病気の父のため盗みを働き、罪人の烙印を押された少年時代。
彼を救い、生きる目的を与えてくれた師・慶蔵と、その娘・恋雪との出会い。
初めて手に入れた守るべきもの、愛する人。
「真っ当に生きる」という父との約束を果たせるはずだった未来。
その全てが、隣接する道場の嫉妬による毒殺という、あまりにも理不尽な暴力によって、一夜にして奪われる。
幸福の絶頂から、絶望のどん底へ。
正気を失った狛治が、素手で67人を惨殺する場面の凄惨さは、言葉を失う。
そして、心身ともに壊れきった彼の前に現れる鬼舞辻無惨。
猗窩座の強さへの異常な執着は、愛する者を何一つ守れなかったことへの、歪んだ代償行為だったのだ。
彼が女性を決して喰らわなかったのは、恋雪への愛の、無意識に残った最後の欠片だった。
この長大な回想シーン。
多くの観客が「テンポが悪い」「中だるみだ」と批判した。その気持ちは痛いほどわかる。
だが、これこそが本作の最も挑戦的で、最も誠実な芸術的選択なのだ。
この映画は、観客の「期待」を意図的に裏切る。
悪役が倒される爽快感を味わわせる代わりに、その悪役の、同情せずにはいられない悲劇を叩きつける。
観客が感じる「テンポの悪さ」という居心地の悪さこそが、制作陣の狙いそのものだ。
これは、鬼滅の刃という物語の根幹をなすテーマ、すなわち「全ての鬼は、かつて悲しい人間だった」という事実を、理屈ではなく、視聴体験として観客に強制的に感じさせるための「構造的な罠」なのである。
この構成は、物語の欠陥ではない。テーマを観客の魂に刻み込むための、見事な演出なのだ。
最後に、人間としての記憶を取り戻した猗窩座=狛治は、自らの技で自身を破壊し、恋雪の腕の中で安らぎを得る。
強さではなく、愛の中に。
この結末は、本作が単なる勧善懲悪のアクション映画ではないことを、何よりも雄弁に物語っている。
映画「劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来」はこんな人にオススメ!
本作を勧めたいのは、こんな人たちだ。
アニメーションを芸術として愛する者
問答無用で劇場へ行くべきだ。これはufotableが到達した一つの頂点。彼らの描くシスティーナ礼拝堂だ。大スクリーンで浴びるべき映像の洪水がここにある。
原作を信奉する者
安心してほしい。制作陣は、我々の期待を裏切らない。原作への忠実さはもちろんのこと、悲鳴嶼の墓参りのようなアニメオリジナルの追加シーンが、物語にさらなる深みを与えている。
アドレナリンを求める者
最初の90分間は、息つく暇もない。美しく振り付けられた混沌の連続だ。シートベルトをしっかり締めて臨むことを勧める。
涙活をしたい者
猗窩座の過去パートのために、タオルを一枚余分に持っていくといい。間違いなく、あなたの涙腺を破壊しにくる。
ただし、注意点もある。
三半規管が弱い者
冒頭の無限城落下シークエンスは、本物のジェットコースターだ。ポップコーンのLサイズは控えた方が賢明かもしれない。
ノンストップのアクションだけを求める者
本作には、長く、静かで、重厚なドラマパートが存在する。ただ剣戟が見たいだけなら、途中で壮絶な悲劇メロドラマを観る覚悟が必要だ。
まとめ
『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』は、欠点すらも魅力に変えた「妥協なき傑作」である。
映像技術の面では『無限列車編』を凌駕する壮大なスペクタクルを実現しながら、物語の構成においては、より挑戦的で、観る者を選ぶ選択をした。
神がかったアクションと、魂を抉るような深い悲劇。その両方を、一切の手加減なく我々に叩きつけてくる。
特に、クライマックスに配置された長大な回想シーンという大胆な構成は、前作のような万人が手放しで絶賛する作品とは異なる、複雑な評価を生むだろう。
だが、その大胆さこそが、本作を忘れがたい一本にしている。
これは単なる物語の一章ではない。観る者の感情を根こそぎ奪い去る、強烈な体験だ。
上弦の鬼を二人も討ち取ったにもかかわらず、物語は勝利の余韻ではなく、次なる戦いへの緊張感と恐怖の中で幕を閉じる。
これから始まる、さらなる犠牲と死闘を予感させる、完璧な舞台設定と言えるだろう。