映画「ゆきてかへらぬ」公式サイト

映画「ゆきてかへらぬ」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!

本作は、大正時代の京都と東京を舞台に、女優・長谷川泰子と天才詩人・中原中也、さらに文芸評論家・小林秀雄という3人の男女が織りなす愛と青春の物語である。歴史に名を残す天才詩人や評論家たちの“切ないまでに不器用”な恋愛模様をリアルに体感できるうえ、その甘くも苦い人間模様には笑いながらもつい「それ、やっちまうか」とツッコミたくなる瞬間が多い。広瀬すず、木戸大聖、岡田将生という実力派キャストが、真面目ながらもどこかユーモラスな空気を漂わせ、妙にスパイシーな火花を散らしてくるのがたまらない。

しかも三角関係という言葉ではくくりきれないトライアングルぶりに、こちらの心は振り回されっぱなし。おまけに時代背景や文学的要素が入ることで一筋縄ではいかない重厚感が加わり、「もうちょっと穏やかにいこうぜ……」という気持ちが湧きつつも、なぜか目が離せない。激辛スパイスを味わってみたい人はぜひ覚悟して劇場に足を運んでいただきたい。

映画「ゆきてかへらぬ」の個人的評価

評価:★★★☆☆

映画「ゆきてかへらぬ」の感想・レビュー(ネタバレあり)

本作「ゆきてかへらぬ」は、大正ロマンの香りと昭和初期へ続く息遣いが色濃く漂う不思議な作品である。長谷川泰子、中原中也、小林秀雄という名前だけでも「おいおい、どんなドロドロの三角関係が繰り広げられるんだ」と身構えたくなるが、実際に蓋を開けてみると、意外や意外、コミカルな場面も少なくない。もちろん火花バチバチの修羅場もあるが、その隙間にスッと入り込むように、彼らの不器用さや甘えがほの見えて「あれ、なんだか思わずクスッとしちゃうぞ」というシーンが随所に転がっているのだ。

物語は、京都で出会った新進女優の長谷川泰子(広瀬すず)と、まだ17歳の学生だった中原中也(木戸大聖)が、妙に生意気なやりとりをしながら惹かれ合うところから始まる。中原中也といえば天才詩人として名高く、教科書にも詩が載っていたりする存在であるが、本作の中では“妙に気取ってカッコつけるけど挙動不審な青年”という姿が強く描かれる。たとえばフランス料理店で泰子が「こんな贅沢いいの?」と聞くと、中也が「こんなの贅沢とは言えないよ。僕はもっと高級な贅沢を追求しているんだ」と鼻息荒く言い放つシーンがある。ロマンチストな彼らしいセリフだが、その後に続く「だけど、今の僕は詩を掴めてない。詩の紛い物しか書けていないんだ」という弱音まで含めて、なんとも愛嬌がある青年に見えてくる。

そんな彼と泰子が同棲を始めるわけだが、そこにはいかにも青春の香りがある。炊事洗濯、生活費、夢のための出費……大正ロマンではあっても、同棲生活に生じる苦労は今とさほど変わらないらしい。泰子が味噌汁に生姜を入れてしまい、中也が「これは……ちょっと……」と言葉を濁すあたりは、筆者のようなズボラ人間でも「わかる、その痛々しい不器用加減、なんかわかるぞ!」と共感してしまう。“彼女は女優希望だけどやる気があるんだかないんだか分からず、彼氏は詩人を目指してるんだか空想家を気取ってるんだか分からない”という、微妙に足並みの揃わない二人。これはこれで愛おしい。

ところが、本作ではもう一人のキーパーソンが登場する。文芸評論家の小林秀雄(岡田将生)である。秀才のオーラを放ちながらも、どこか隙だらけな印象をまとい、中也の家に出入りするようになる。中也の才能に惚れ込み、フランス文学の話で2人は大いに盛り上がるわけだが、傍で眺めている泰子からすれば「なんだか自分だけ蚊帳の外」という気分になる。ご機嫌ナナメの泰子と、一方でなまじ言葉に関しては超一流ゆえに口数の多い小林。中也よりも年上らしい落ち着きは感じるが、どこか人を煙に巻くような雰囲気があり、泰子にしてみれば「この人は甘えさせてくれそうだし、しかも中也みたいに突拍子もない言動はしなさそう」と、ある意味“安心感”を抱いてしまうのかもしれない。それが結局、中也の元から小林の家へ移る動機となったのかもしれないが、はたから見ていると、どっちに転んでも苦労しそうだぞ……と心配せずにはいられない。

実際、泰子が小林の元へ行った後も、幸せ絶頂というわけにはいかない。小林は小林で、泰子の奔放さを扱いきれず、雨戸を閉める音の数を追及されるなど謎の要求に翻弄される。「いったい彼女は何を言っているんだろう?」と思いつつも、一見涼しげな顔を保つ秀雄に対して、全力で自分を理解してほしいようで実は自分の内面がまとまっていない泰子。この噛み合わなさ加減は、それこそ大正ロマンに出てくる恋物語としては異質な、現代にも通じる「共感性すれ違いコメディ」を思わせる。

しかし、本作の秀逸なところは、こうしたコミカルなやりとりを通じて、大正時代の自由恋愛がいかに先鋭的だったかを逆説的に浮き彫りにしている点にある。「男と女のどろどろした駆け引き」と言ってしまえばそれまでだが、泰子や中也、小林のように感性をむき出しにぶつけ合って生きている人々には、ある意味で羨ましささえ感じる。と同時に、それだけエネルギーを注ぎ込んでも満たされない部分があったからこそ、歪んだ関係に踏み込み続けたのではないかと思わせる。

結局、泰子は小林とも破局し、中也は詩作に追われ、言葉に追われ、自分自身とも向き合いきれないまま病死してしまう。史実としては悲劇的な結末だが、本作ではそこに「青春の墓標」とも言うべき儚さを感じる。愛し合っても一緒にいられない。別れたって、相手のことを完全に嫌いになれもしない。すっぱり断ち切れないからこそ、日常の中に刺のような記憶がいつまでも残る。そんな人間模様がビシビシ伝わってくるのだ。

一方で役者陣の熱演は確かに見応えがある。広瀬すずはこれまでのイメージをガラリと変えて、奔放だけどもどこか脆い女性を体当たりで演じきっている。天然っぽい可愛らしさと、情緒不安定な影の同居具合がうまくマッチしていて、泰子という人物の底の知れなさを際立たせる。一方、中也役の木戸大聖は天真爛漫さと天才的才能が表裏一体である詩人の“危なっかしさ”を漂わせ、その若々しいエネルギーで突き進んでいく姿が印象的だ。岡田将生の小林秀雄は、クールながらも感情の沸点が見えにくく、彼がいつ爆発するんだろうとハラハラさせる余韻がある。3人とも異なるタイプの役どころだけに、スクリーン上で交わるたびに空気が変わり、「次はどうなるんだ?」という興味をずっと引きつけてくれる。

また、本作を語るうえで外せないのは、大正時代・昭和初期のレトロなムードを醸し出す美術・衣装、そして時代を感じさせる音楽・背景描写である。京都の町並みや、東京でのややモダンな建物、泰子のモガ風ファッションなど、画面を彩る要素がいちいちツボを突いてくる。ときにはメリーゴーラウンドやダンスホールといったシーンが登場し、「大正モダンってこんなオシャレだったのか!」と驚かされる。中也の詩が引用される場面では、淡い照明のなかにフランス語が響き、耽美的な雰囲気に酔いそうになる。だがそこに、あっさりした突拍子もないセリフがかぶさってきて、強制的に現実へ引き戻される。この落差がまた、観客を楽しませてくれるわけだ。

さて、三角関係映画といえば「嫉妬・裏切り・修羅場」の三種の神器が思い浮かぶが、本作の修羅場はそこまで派手ではない。その代わり、視線や言葉のニュアンスといった繊細な部分に「えっ、いま軽く地雷踏んだよね!?」とハラハラさせられるシーンが多い。それが激辛と形容されるゆえんでもある。

怒鳴り合いの大ゲンカや束縛シーンはあまりないが、じわじわと精神を侵していくような火花が散っている。特に泰子が小林と暮らし始めてからの場面は、彼女がぶつける不可解な要求や、ちょっとした言い回しが妙に不安定な空気を生み、「これって愛なの? それともただの依存? いや、やっぱり愛なのか?」という混乱が静かに積もり上がる。その煮え切らない空気感が、何とも言えない緊張感をもたらすのだ。いわゆる直球勝負のメロドラマではなく、心の機微を拾い上げる文芸的アプローチだからこそできる芸当ともいえるだろう。

とはいえ、観客側もストレスが溜まりっぱなしというわけではない。役者の放つユーモラスな芝居や、会話の随所に差し込まれる笑いのエッセンスが“激辛と甘味”のバランスを保ち、なんともクセになる味わいを演出している。

筆者としては「大正時代の恋愛ってもっとかしこまった感じかと思いきや、案外ドタバタしてるもんなんだな」と痛感した次第である。「これはもう、グルメ漫画でいう“辛いの苦手だけど、辛さがやみつきになる”あの感じじゃないか」と思いながら、気づけばエンドロールまで一気に観てしまった。

「ゆきてかへらぬ」は中也と泰子、小林という歴史に名を刻んだ人物たちを斬新かつ人間くさい視点で捉え直した作品である。天才詩人や著名な評論家という“文豪オーラ”を意識するよりも先に、「ああ、なんだこの人たちは不器用な人間同士でドタバタしてるんだ」というリアルさを感じさせるところが面白い。時代考証や文芸的要素もそれなりに詰め込まれているが、「むしろここまでグダグダしてくれるなら大歓迎」という人間ドラマ好きにはどハマりするかもしれない。

結末としては救いがあるのか、ないのか。少なくとも“めでたしめでたし”とは言い難いラストだが、人の繋がりの複雑さ、ましてや恋愛における複雑さを、一つの形で示してくれているように思える。激辛というにはビリビリと痺れる刺激があり、レビューを書き終えた今でもなんだか心がザワつく。だがそれこそ本作最大の魅力かもしれない。

観終わった後、ぼんやりと「自分ならどうする?」と考えさせられる。広瀬すずのキュートさも木戸大聖の若きエネルギーも岡田将生の色気も存分に味わえ、かつ歴史の中の“人間臭い恋愛”にズブズブ浸かれる。「ゆきてかへらぬ」は、そんな体験を約二時間で提供してくれる文芸ロマンの逸品である。

映画「ゆきてかへらぬ」はこんな人にオススメ!

本作「ゆきてかへらぬ」をオススメしたいのは、まずは“人間のめんどくさい感情”をとことん味わいたい人である。いわゆるラブロマンスを期待すると火傷しかねないが、「どこか歪んでいて、それでも切実に愛を求める男女の姿にグッときたい!」というタイプにはドンピシャだろう。激辛ムードだが決して救いのない絶望映画でもなく、コミカルでキュートなシーンがスパイスとして効いているため、ずしんと重苦しいだけの文芸映画はちょっと…という人にも案外ハマるはずだ。

それから歴史や文学が好きだけど、学問的に真面目すぎるアプローチは苦手という人にもオススメである。本作には中原中也や小林秀雄といった重厚な文豪ネタが詰まっているが、キャラクターの描き方がどこかエンタメ寄りで、むしろ「こんなに面白い人たちだったのか」と発見があるかもしれない。彼らの詩や評論を深く知るきっかけにもなるが、本編はあくまで「彼らを人間として描く」ことを重視しているので、読書家でなくとも十分に楽しめる。

さらにレトロファッションや大正モダンの空気に魅了される方にもおすすめしたい。古都・京都や昭和初期の東京が持つ独特の風情が随所に散りばめられており、ロケーションや衣装だけでも目の保養になる。美術セットや音響演出が想像以上に凝っていて、「和洋折衷の世界っておしゃれだな」とうっとりする瞬間も多い。

人間関係を深読みしつつレトロな世界観も楽しみたい人、そして辛口の人間ドラマに時折のユーモアを欲する人にこそ、映画「ゆきてかへらぬ」はうってつけである。

まとめ

映画「ゆきてかへらぬ」は、いわゆる“三角関係もの”という枠を超えて、大正ロマンと人間ドラマの混ざり合った独特の味わいを提供してくれる作品である。中原中也、小林秀雄というビッグネームが登場するため堅苦しい印象があるかもしれないが、実際にはハチャメチャなやりとりや「ちょ、それは無茶でしょ!」と突っ込みたくなる場面も多く、意外なほどコメディ要素が強い。

一方で、愛を得ようとして迷走する泰子の姿からは、笑っていいのか泣いていいのか複雑な気分を突きつけられる。いくら好きあっていても、互いに深く傷つけ合ってしまう。かといってあっさり別れるかといえば、それもできない。そんな“愛のジレンマ”がリアルかつユーモラスに描き出されているのが最大の魅力だ。

「彼らは本当に何が欲しかったのか?」と考えさせられ、観終わった後にしばらく余韻から抜け出せなくなるだろう。天才詩人や評論家という肩書ではくくりきれない、一人の人間としての“もがき”に目を向けると、古い時代の物語であっても妙に身近なメッセージを受け取れる。辛口好きも、ロマン派も、ユーモアを求める人も、ぜひ一度、この不思議な激辛スープに浸かってみてほしい。