映画「西の魔女が死んだ」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!
登校拒否になってしまった中学生の少女と、森の奥で暮らすイギリス人のおばあちゃんの物語だと聞いて、最初は「ちょっと地味なヒューマンドラマかな?」と思っていた。ところがどっこい、実際に観てみると心にじわりと効いてくるスパイスが意外に強く、家でまったり鑑賞のつもりが最後には結構涙を誘われてしまった次第である。
タイトルからは「魔女」とか「死んだ」という刺激的な単語が並んでいて、もっとファンタジー要素が強いのでは…と想像しがちだが、蓋を開けてみれば“生きづらさを感じる人々にそっと寄り添ってくれる物語”という印象であった。魔女云々の設定がスパイスとなり、現実と幻想の境目がほどよく混じり合い、なんとも不思議な癒やしパワーを放っている。
そんな映画「西の魔女が死んだ」はどんな要素を秘めているのか。本記事ではネタバレ満載の激辛レビューをしていくので、心の準備をお忘れなく。
映画「西の魔女が死んだ」の個人的評価
評価:★★★★☆
映画「西の魔女が死んだ」の感想・レビュー(ネタバレあり)
本作「西の魔女が死んだ」は、「学校に行かなくなった中学生のまいが、田舎に暮らすおばあちゃんと過ごすことで心を立て直していく」というあらすじを核に展開している。一見すると“静かで穏やかなお話”というイメージが強いが、その内側では思春期ならではの鋭いトゲや、親子関係のズレ、さらには生死にまつわる哲学的な問いまで入り乱れているから油断ならない。結論としては、観終わったときに「あ、なんだか人を好きになることや、自分と他人の境界線にまつわる悩みがちょっと軽くなったかも」と思えるタイプの作品である。と同時に「なぜ魔女という設定を使っているんだろう?」という疑問も湧いてくるわけだが、この問いに対する答えがまたなかなか奥深く、さらにはおばあちゃんの素敵ライフと絶妙にマッチしているので、ファンタジー好きも現実主義者も両方にとって楽しめる仕上がりだと感じた。
さて、具体的にネタバレを交えて語っていこう。まず主人公のまいが置かれている状況がなかなかシビアである。中学へ進学したものの、いわゆる“女子のグループ行動”にどうしても馴染めず、学校へ行かないと決め込んでしまう。やたらと気を遣う必要がある人間関係に疲れ果てる子は現代社会では少なくないが、本作はそんな少年少女の気持ちを丁寧に拾い上げているわけだ。まいの母親(ママ)も、娘に寄り添いたいがどうしたらいいか分からない。ましてや仕事が忙しく、単身赴任中の夫との連携もままならない。結果、「とりあえず母方の祖母のところに行かせてみるか」という展開になる。確かに当人たちからすれば、そう簡単に解決できる問題でもないので、これが“投げやり”というよりは“いったん距離を取る”方法だったのかもしれない。
ここで登場するのが“西の魔女”ことイギリス人のおばあちゃんだ。田舎の一軒家でひとり暮らしをしているおばあちゃんは、とにかく優しくて懐が深く、しかし芯はしっかりしているという最強の存在である。彼女は「魔女修行」をキーワードに、まいに規則正しい生活や家事、勉強のリズムを教える。だけどもちろん「ただ厳しく鍛える」というわけでもなく、まいの自主性を最大限に尊重してくれるというスタンスなのだ。「人は自分で決めなさい、自分で責任を持ちなさい」というメッセージをやんわり伝えてくれるこのおばあちゃんの姿勢が、まるでトラウマに苛まれたまいの心をほぐしていく。さらに、このおばあちゃんがイギリスから来た“本物の魔女の血を引いている”という設定が、物語に独特のロマンをもたらしている。
たとえば彼女は「死ぬとはどういうことか?」という問いに対しても、自分が信じる世界観を隠さず話す。魂と身体の分離であったり、死後の自由と成長の話だったりと、かなり宗教的ともいえる内容だが、まいにとってはこれが救いになり「おばあちゃんが死んだら教えてね」という約束を交わすことになる。こう書くと、ますますファンタジー色が強い作品に思えるかもしれないが、実はその根底には普遍的なテーマがしっかり据えられている。要は「生きるとは何か」「人とどう向き合うか」ということだ。死について考えることで逆に生への手がかりを掴むというわけである。
そこに追い打ちをかけるように登場するのが、近所のゲンジという男性である。いかにも無神経で粗野なタイプに見えて、まいにとっては「関わりたくない人No.1」なのだが、この人こそ作品後半への重要な伏線となっている。何しろまいはゲンジの犬が鶏を殺した犯人だと決めつけるなど、ゲンジに対して不当な怒りや嫌悪感を抱いてしまう。おばあちゃんは「見てもいないことを勝手に決めつけるものじゃないし、そういう疑惑や憎悪は自分を滅ぼす」と教えてくれるが、当時のまいには理解しがたい。思春期真っ只中で感情の起伏も激しい頃合いだからこそ、自分の妄想と感情が暴走しがちになるのだ。ここで本作が示唆するのは「人間は先入観や不安で相手を勝手に怪物に仕立て上げてしまう」という普遍的な心理であろう。その状況に対して、どう対処し、どう折り合いをつけるかは人それぞれだが、本作ではおばあちゃんが“疑いの目を向けるのではなく、自分の心の静けさを守るほうが大切”だと説いているわけだ。
しかし、終盤になるとまいの母親がいよいよ本腰を入れて「やはり家族3人で暮らそう」という方向に舵を切り、まいを都会へ連れて帰ることが決まる。もちろんまいは魔女修行の過程で成長しており、新しい学校選びにもポジティブに取り組もうという意志を見せるのだが、やはりおばあちゃんとの別離は避けられない。とくに最後の夜、まいが激昂して「ゲンジなんか死んじゃえばいい!」と言ってしまい、おばあちゃんに頬を叩かれるシーンは印象的である。大好きなおばあちゃんにとって、もっとも重大な一線を越えてしまったまいに対して、「あえて叩く」という行動で強いメッセージを発するわけだ。そこには、おばあちゃんがずっと大切にしてきた価値観――相手を理解しようとする姿勢や愛を忘れないこと――に反するまいの言葉へのショックと怒りが込められていると同時に、「どうか人を呪うような気持ちは持たないでほしい」という願いも感じる。
そして2年が経ったころ、まいは再びおばあちゃんの家を訪れることになる。今度は「おばあちゃんが倒れた」という知らせを受けて駆けつけるわけだが、そこで待っていたのはすでに息を引き取ったおばあちゃんの姿だった。この時点で「おばあちゃんが死んだら連絡する」と言っていた約束は果たされていないように見える。まいは2年も会いに来ず、最後まで気まずいままだったことに強い後悔の念を抱く。が、物語はここで終わらず、おばあちゃんが残した不思議なメッセージが温室の窓に書かれているのをまいが発見する。「ニシノマジョカラヒガシノマジョヘ オバアチャンノタマシイダッシュツダイセイコウ」。ああ、おばあちゃんはやはりまいに知らせてくれたんだな、と。まいは「おばあちゃん大好き」と呟き、遠くから“I know”という声を聞く。この演出は泣かないではいられない。魂と身体の話が単なるファンタジーではなく、実は愛する人への思いをつなぐための大切なキーだったと気づかせてくれる。
こうして見どころをざっと並べてみると「いや、結構スピリチュアル寄り?」と感じる向きもあるだろう。だが実際のところ、本作が描くのはあくまで“思春期の自立”や“家族関係の難しさ”といった地に足のついたテーマであり、魔女だとか魂といったキーワードはあくまでアクセントに過ぎない。しかし、そのアクセントがなければ、本作のまろやかな世界観はもっと淡白になってしまったかもしれない。ファンタジー性とリアリティが絶妙にミックスされたことで、観る者に不思議な安心感や郷愁、さらには“生きるヒント”を与えてくれるのだと思う。そういう意味では、魔女設定はじつに効率の良い調味料である。
また、イギリス流のライフスタイルを匂わせるおばあちゃんの暮らしっぷりも魅力的だ。庭でハーブを育て、その植物を使ってハーブティーやジャムを作り、家具や洋服も手作りで楽しんでしまう。自給自足に近いスローライフが、まいの疲れた心を溶かしていくのも納得である。あそこにひと夏でもいいから行ってみたい、そしてあのハーブティーを飲んでまったりしたい、そんな気持ちを観客に抱かせるあたり、風景や美術セットの力も大きいのだろう。実際にロケセットが公開されていた時期があったようだが、自然と溶け合うように作られた家屋は見るだけで癒やされたに違いない。
一方、まいの母親(ママ)は“社会”の象徴として対比的に描かれている。まいに対して「扱いにくい子」なんて言葉を使い、仕事や生活が忙しくて、なかなか娘の悩みに気づけない。しかも、まいをおばあちゃんの家に預けておきながら、自分は自分で夫との暮らしをどう再構築するかばかり考えている。正直、理想的な母親像からはちょっと外れているかもしれないが、現実にこういう親子は多いだろう。結局、彼女自身も中学生時代は“ハーフ”ということでクラスに馴染めなかった経験があるのだし、人間はそう簡単に完璧な親になれないということを突きつけられる。むしろ、おばあちゃんは先生役としては最適だが、母親として過去に自分の娘をうまく導けていたわけではないのかもしれない。本作の中盤に感じる彼女とおばあちゃんの微妙な距離感は、まさに親子関係の難しさを象徴しているようで興味深い。
終盤、まいが大人になっていく一方で、おばあちゃんは寿命を迎える。どんなに優れた人間も、ある日突然いなくなってしまうのが人生というものである。だからこそ、まいとおばあちゃんの交流はかけがえのない時間としてより輝きを増す。ラストのまいの「おばあちゃん大好き」に対する、おばあちゃんの心の声「I know」は、観客にとっても最上級の癒やしだ。ここが単なるお涙頂戴ではなく、ちゃんと「魂の解放」という設定をもとに成り立っているのが素晴らしい。どこまでも静かで穏やかながら、確実に胸に染みるクライマックスである。
以上のように、映画「西の魔女が死んだ」は、スローライフや思春期の自立、家族愛、さらには死生観までをやさしく丁寧に紡いだ作品なのだ。魔女や森のイメージに惑わされるとファンタジーかと思われるが、実は現代人が抱えがちな不安や悩みに、まるで小さな灯火をともしながら答えてくれるようなリアリティがある。そして筆者的には「ゲンジなんか嫌だ」「アイツさえいなければ!」と感情を爆発させるまいの生々しさにこそ、本作のヒリヒリ感が生きていると感じる。甘いだけじゃない、しかし決して苦すぎない優しさが混ざった映画は、観る者の心をそっと解きほぐしてくれるだろう。
映画「西の魔女が死んだ」はこんな人にオススメ!
まず挙げたいのは「ちょっと疲れている人」である。仕事や学校で人間関係に磨り減りそうになっている時、この映画を観るとおばあちゃんの包容力に思わずホロリときてしまうかもしれない。とにかく静かな森の風景とハーブの香りを想起させる映像が多いので、都会の喧騒から離れてリフレッシュする感覚が得られるのだ。加えて、魔女修行という独特のテーマがほんのりとしたロマンを漂わせてくれるので、ファンタジーにほんのり癒やされたい人にもおすすめだ。
また、「死」に対する不安や恐怖を抱えている人にも刺さるはずだ。おばあちゃんの語る“魂と身体”の話がすんなり自分の世界観に落とし込めるかどうかは人それぞれだが、「死は魂にとって解放である」という視点は、死をタブー扱いしないひとつの考え方として心の安定材料になり得る。特に、大切な家族や友人を失った経験がある人にとって、本作の終盤には強く胸を打たれる場面が用意されている。メッセージが温室のガラスに残されているシーンなどは、信じる・信じないを超えて胸が熱くなること請け合いである。
さらに、「家族の距離感に悩む人」にもうってつけだ。まいと母親、それにおばあちゃんとのトライアングル関係を見ていると、同じ家族でもそれぞれ価値観がまったく違うという現実を思い知らされる。そして、本作はそれを理想の親子像に無理やりまとめあげるわけでもない。ちょっとズレつつもつながっている、そんな家族のありようを知ることで「これでいいんだ」と気持ちが楽になることだろう。
要するに、癒やしと優しさを求める人、ちょっぴりファンタジー要素のあるヒューマンドラマが好きな人、そして生や死について考えたい人にオススメできる作品だ。タイトルだけ見ると「魔女が死んでしまうの?怖そう」と思う人もいるかもしれないが、ご安心いただきたい。怖いというよりは、むしろ観終わったあとに心の奥で温かい光がともるような映画なので、興味のある方はぜひ一度おばあちゃんの森へ足を踏み入れてみてほしい。
まとめ
映画「西の魔女が死んだ」は、一見ほのぼのとした空気感が強いが、実は思春期の繊細な心や親子のすれ違い、さらには生と死にまつわる深いテーマが絡み合う奥行きのある作品である。だけど、それを重苦しく語るわけでもなく、程よくファンタジーの要素をブレンドすることで視聴者を優しく包み込んでくれる。
まいとおばあちゃんの交流は、どこか昔懐かしい祖母と孫の姿を想起させつつも、現代の少年少女が抱える“生きづらさ”をしっかり描いており、多くの人が共感するだろう。特筆すべきは、「魔女修行」と称しておばあちゃんが教えてくれる規則正しい暮らしや、“疑いの目を向けるのではなく心を耕す”という姿勢だ。それは私たちの日常にも応用できる大切な考え方だと思う。
観終わったあと、自分の中のどこかがホッと安堵して、同時に「もっと人にも自分にも優しく生きたい」と思えるはずだ。そんな不思議な力を秘めた映画なので、何かに疲れているときこそ、ぜひ一度体験してほしい。