映画「怪物」公式サイト

映画「怪物」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!

本作は是枝裕和監督と坂元裕二がタッグを組んだことでも大いに話題を呼んだが、実際に観てみると想像以上に挑戦的かつ刺激的だった。タイトルや予告編からは「どんな恐ろしい出来事が待っているのか…?」と身構えてしまうが、本編で描かれるのは“人はなぜ互いを理解できないのか”という重たい問いだ。しかも、それを決して説教くさくは見せず、多視点の構成に乗せて一気に引きずり込んでくる。誰が良い人で、誰が悪い人なのか。そもそも善悪というものがあるのか。作品の途中からは「自分だって誰かの視点では怪物かもしれない」と考えさせられ、自分の中の固定観念すら揺さぶられる。

一方で、子どもたちの純粋さや不安定さが、観る側の胸をヒリヒリと刺激する。そんなざわざわした気持ちの行きつく先が、思いもよらないラストシーン。観終わったあと、あなたはどんな感想を抱くだろうか。ここからはその顛末を遠慮なく語っていくので、未鑑賞の方は覚悟してほしい。

映画「怪物」の個人的評価

評価:★★★★☆

映画「怪物」の感想・レビュー(ネタバレあり)

是枝裕和監督と坂元裕二が組んだ作品というだけで、多くの観客が期待を寄せたのではないだろうか。前者は『万引き家族』をはじめとした人間ドラマ、後者は『花束みたいな恋をした』などの会話劇を筆頭に絶大な支持を得ている人物である。両者とも社会問題や家族のかたちをリアルに描くことを得意としており、そこへ子どもを中心にした視点が絡んだら、いったいどんな物語になるのか。蓋を開けてみると、いじめや教師と保護者の対立など、ある意味で「日本中どこにでも転がっていそう」な事件から始まるのが本作の特徴だ。しかし、その表層的な出来事を追っているだけでは本質にたどり着けない。物語は同じ時系列を「母親」「担任教師」「子ども」の視点から繰り返し描くことで、“真実のかたち”が徐々に姿を変えていく仕掛けになっている。

まず印象に残るのは、母親である麦野早織(安藤サクラ)の視点だ。シングルマザーとして必死に働きながら愛息子を守ろうとする早織は、決して間違ったことをしているようには見えない。息子の耳に傷があれば担任教師を疑うのも当然だし、校長や教頭があまりにも形式ばった謝罪しか示さないなら声を荒げるのも仕方ない。だが、このパートを観ている間、観客は彼女の焦りや怒りに同調しつつも、どこか「ちょっと言葉が過ぎるな」と感じる瞬間を覚えるのではないか。彼女が問題解決を進めようとする勢いが強すぎて、学校側の対応が“まるで人の話を聞かない冷酷な集団”に見えてしまう。しかし実際のところ、それはあくまで早織から見た教師たちの姿に過ぎない。その事実が第2パート以降で明かされていくのだ。

第2パートは担任教師・保利道敏(永山瑛太)の視点だ。早織パートで見る限り、彼は“怒りを鎮めようともしない加害教師”のように見えた。だが自分の視点になった途端、保利は初めて学校勤めする新任であり、子どもたちに寄り添おうと奮闘していた人間だとわかる。とはいえ、彼が完璧ないい人というわけでもない。熱心に生徒を助けようとするあまり、ちょっとした誤解や不注意で疑いをかけられ、世間のバッシングにまで発展していく。面談でイライラをこらえきれずアメを舐めてしまうシーンは、人として良いか悪いかではなく「そりゃ母親からすれば不快だろう」と言わざるを得ない。つまり保利は悪意で動いているわけではないが、そのズレが原因で早織の疑念を逆撫でする。そして、自分の中にも潜んでいる偏見ゆえに“ある生徒”をいじめの加害者だと信じ込んでしまう。こうした行き違いの積み重ねが、母親サイドでは教師が怪物に映り、教師サイドでは保護者がモンスターに見えるという事態を引き起こしていくのだ。

そして第3パートが、本編の肝と言える子どもたちの視点である。このパートこそが本作に織り込まれた最大の仕掛けであり、それまでに拭いきれなかった疑問点が徐々に明るみに出てくる。たとえば、耳にケガをした原因は本当に教師による暴力だったのか。暴言を吐かれたとされる「豚の脳みそ」というワードは誰から発せられたのか。こうした点が、当事者である湊(黒川想矢)と依里(柊木陽太)の行動を追うことで解きほぐされる。また、2人の関係性が予想以上に特別なものであったことも明らかになる。周囲の大人が「子ども同士のトラブル」や「いじめ加害・被害」などに焦点を当てる一方、当の子どもたちの思いはもっと複雑だ。互いに抱える秘密を打ち明けるわけでもなく、ただ一緒にいると落ち着く――そんな静かな絆がそこにある。だが、事情を知らない大人たちは誤解を広げ、さらには誤った形で責任を押しつけあう。結果として表面的には事件が炎上し、“誰か一人を悪者にしないと解決できない”という空気が出来上がっていくのだ。

ここで象徴的なのが、本作の冒頭に登場するビルの火災である。炎上したビルに集まる野次馬を映すシーンは、現代社会で言われる“炎上”や“バッシング”に似ていないだろうか。根拠が曖昧なまま「こうに違いない」と決めつけ、それを一斉に拡散して他者を追い詰める。映画内で保利が週刊誌やワイドショーの格好の的にされるのも、ビルの火災に群がる人々と重なる構図だ。何が正しくて誰が悪いのか、冷静に確かめる前に怒りや悲しみが膨れ上がり、誤解が誰かの人生を奪っていく。タイトルの「怪物」が差し示すのは、まさにこうした“真実を湾曲させる視点の数々”そのものかもしれない。

一方で、本作は決して「大人は常に無理解だ」「社会が子どもを抑圧するのだ」といった一面的なメッセージにとどまらない。校長(田中裕子)の描かれ方がその好例だろう。第1パートの早織視点では、ずっととぼけた態度をとり、事態を小さく収めようとする“嫌な大人”にしか見えない。しかし子どもの視点から見ると、校長は意外にも誤植探しが好きな保利を気にかけたり、楽器の音を通じて子どもを救おうとしていたりと、人間味ある行動を見せる。しかも校長自身も何かしら心に傷を抱えたまま、ゆがんだ形で周囲に向き合っているような気配もある。人間は多面的であり、自分の都合で相手を一括りに断罪するのは危険だというメッセージが伝わってくる。

そして忘れてはならないのが、湊と依里が最後に選んだ行動だ。彼らは誰にも理解されないであろう自分たちの関係性をどうにか守るため、嵐の夜に秘密基地へ身を寄せる。その結末は非常に切なくも印象深い。なぜなら、やっとの思いで大人が駆けつけたはずの場所に子どもの姿が見当たらないからだ。朝になり、作品はラストで突然まばゆい青空のシーンに切り替わる。荒れた天候から解き放たれたような自然の風景の中を、2人が笑顔で駆け抜けていく場面だ。これは“奇跡的に救出された”と解釈するか、“2人はあの夜に姿を消した”と解釈するか、はたまた“あの場所だけは誰にも壊せない2人の世界”という象徴なのか。監督は答えを明確に示さない。一方で坂元裕二の脚本特有の、ふっと希望を感じさせるラストでもあるといえる。多くの登場人物が不完全で傷ついたままなのに、子どもたちにはどこか強い生命力が宿っている。その鮮やかなコントラストが胸に残るのだ。

結局、誰が怪物なのかは明示されない。むしろ「誰もが怪物になり得るし、同時に傷つきやすい存在でもある」という視点こそが本作の本質ではないだろうか。社会は何かトラブルが起こると「怪物探し」を始めがちだ。しかし、視点を変えれば怪物が入れ替わり立ち替わり現れ、自分だって他人だっていつ“加害”にも“被害”にも転じるか分からない。大事なのは、そのことに自覚的であるかどうかだ。だからこそ、坂元裕二らしい繊細な台詞と是枝裕和のリアルな演出が噛み合い、本来なら説教臭くなりかねないテーマを鮮やかに掘り下げている。

さらに坂本龍一による音楽も見逃せない。作中に散りばめられた静かで印象的なピアノや管楽器の旋律は、子どもたちが抱える孤独や希望をそっと代弁しているようにも思える。特に嵐の夜、保利が子どもの声を呼び寄せるように楽器の音を聞く場面は象徴的だ。あの音の存在こそ、誤解され傷ついた人々と、真実を抱えながら言葉を失った子どもたちを一瞬だけつなぐ重要な合図になっている。

振り返ってみると、本作は「いったい何が真実で、どこに落ち度があるのか?」というミステリ的面白さを持ちながら、根幹にあるテーマは“多様な視点の並立”と“思い込みの危うさ”だ。表面的にはモンスターペアレント問題や教師バッシング、同級生間のトラブル、DVなど現実で耳にする社会問題が次々と提示されるけれど、最後に行き着く先は「もっと個々を丁寧に見るべきではないか」という問いかけ。誰もが一面的な善人でも悪人でもない。言い換えれば、「怪物」を単純に一人に定めてしまうと、その人自身のいろんな面に目を向けなくなるし、同時に自分の醜さにも気づかないままになるということだろう。

結末の捉え方は人それぞれだが、もし2人が生きていて、あの後も大人の世界へ戻っていくならば、彼らを取り巻く空気も少しは変わっていてほしいと思う。嵐の後の空は晴れている。誰もが自分の中の偏見や短絡を少しずつ意識し、周囲と対話を重ねることで、見えなかった声に耳を傾けられるかもしれない。そうした淡い希望を抱けるエンディングではあると感じた。

一方で、もしあれが2人の儚い幻想や永遠の別れだと捉えるならば、その美しさは同時に社会の残酷さを際立たせる。どちらにしても、観客は最後に突きつけられる映像から「自分の見えていない世界がある」ことを強烈に思い出すのではないだろうか。

社会問題を扱った重たいテーマの映画は数多く存在するが、本作のユニークさは“視点のずれ”を前面に出しつつ、登場人物の行動原理を突き詰めたところにある。早織は息子を守りたいだけ。保利は生徒を傷つけたくないだけ。そして子どもたちは、自分たちの想いが否定されない場所を探しているだけ。もし誰かに悪意があるとすれば、それは「一方的に誰かを怪物に仕立てあげる社会の空気」なのかもしれない。

観終わると、観客は自問せずにはいられない。「自分は誰かを一面的に裁いていないか?」と。そこに、本作の一番の衝撃が隠されているように思う。

映画「怪物」はこんな人にオススメ!

まず、自分なりの答えを見つけるのが好きな人に向いている。これは単純な勧善懲悪のストーリーではなく、視点の違いによって出来事が全然違う様相を呈する。だからこそ、観る人それぞれが「この人は本当はどういう気持ちだったのだろう」と想像を膨らませる醍醐味がある。自分の中で謎を解きながら観られる人にはたまらないだろう。

また、子どもをめぐる社会問題に関心がある人や、教師・保護者として子育てに悩んだ経験がある人にも刺さるはずだ。いじめやDV、モンスターペアレントという言葉がニュースで取り沙汰される時代に、「実際の当事者はどんな気持ちでいるのか?」と深く考えさせられる。本作は一面的な答えを出すのではなく、多面的な人間模様を提示してくれるので、現実社会を見つめ直す手がかりになると思う。

さらに、監督や脚本家のファンにとっては見逃せない。是枝裕和監督のリアル志向の映像表現と、坂元裕二の綿密な会話や構成の組み合わせは意外に相性が良く、新鮮な化学反応を起こしている。坂本龍一による静かで印象的な音楽が、作品にさらなる奥行きを与えている点も注目ポイントだ。

最後に、映画を観て「あのキャラクターは本当はどう感じていたのかな?」と誰かと語り合うのが好きな人。おそらく本作は観終わった後、あのラストシーンについて話し合わずにはいられなくなる。いろいろな解釈を持ち寄ると、自分だけでは見えなかった物語の側面を改めて発見できるだろう。そういう意味でも、鑑賞後に誰かと意見交換してみたい人にもぴったりだ。

まとめ

この作品は、一度観ただけでは捉えきれないほど多層的だ。母親、教師、子どもの3つの視点を経るたびに、物語の光と影がくるくると入れ替わり、それぞれの主張がどこまで正しくて、どこからが誤解なのかを考えさせられる。観客自身も途中で予断を持ち、あるキャラクターを悪者扱いしてしまうかもしれないが、別視点に切り替わった瞬間にその判断が足元から崩されることになる。

タイトルが象徴する「怪物」とは、何か特定の存在や人物を指すのではなく、私たちの視点の偏りそのものを指しているように思う。どこから見るかによって、嫌悪も理解も生まれるからだ。しかしラストには、たとえ歪みだらけの社会であっても、生きようとする子どもたちの力強さが映し出される。観終わった後のざわざわした余韻は、人間ドラマとしての深みと同時に、あなた自身の中にあるかもしれない“怪物性”への問いかけでもある。