映画「川っぺりムコリッタ」公式アカウント

映画「川っぺりムコリッタ」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!

ここ北陸のとある町を舞台に、日々をなんとか生き延びようとする人たちが集まるアパートで巻き起こる、ちょっぴり不思議な物語である。第一印象は「しんみり系の作品かな」と思いきや、意外にも会話のやり取りが軽妙で、観ているこちらまで妙に心がほぐれてしまう雰囲気がある。特に、刑務所を出てきたばかりの青年と、隣に住む“何やら訳あり”な住人が繰り広げるやり取りは、緊張と脱力の絶妙なバランス。生きるのに疲れた人が思わず「こんな場所でゆっくり暮らすのも悪くないかも」と感じてしまうような、ほのかな温もりを放っているのだ。

とはいえ、本作では「生と死」にまつわる深い要素がしっかりと描かれているため、一筋縄ではいかない展開が続く。登場人物たちが抱えるさまざまな事情や過去が、笑いそうになった瞬間にズシッと胸に響いてくる。けれども悲壮感ばかりに傾くわけでもなく、不思議な空気感のアパートに引き寄せられていくうちに、いつの間にか「人とごはんを食べるって大事だなあ」なんて思わされる。そんな、気軽には語り尽くせない魅力にあふれた作品だと断言できる。以下はネタバレありの内容なので、未見の方はご注意あれ。

映画「川っぺりムコリッタ」の個人的評価

評価: ★★★☆☆

映画「川っぺりムコリッタ」の感想・レビュー(ネタバレあり)

ここから先は、約五千ほど語っていくので、腰を据えて読んでいただきたい。まず主人公である青年“山田”が抱える事情から話を進める。彼はいわゆる前科者で、出所後に新しい人生をスタートしようとするのだが、その足取りはどうにも重そうだ。最初に勤務する塩辛工場の社長からは「更生できるよ!」と熱血応援を受けるものの、なんだか山田は「自分にそんな価値があるのか」とでも言いたげにうなだれているように見える。

そんな山田が住むことになったのが、築年数だけはやたら古い安アパート「ハイツムコリッタ」。いかにも色々ありそうな住人が集う場所で、遠目に見れば昭和の残り香が漂うのんびりスポットに思える。だが、そこの大家さんや、隣人、さらには階下の住人までもが単にのんびり過ごしているわけではない。それぞれに抱えきれない思いを秘め、表向きは能天気に見えたり飄々としていたりするが、一枚めくれば辛い経験や後悔が顔を出してくる。だが、そこがポイントでもあるのだ。過去が全くない人なんていないし、どこかのタイミングで自分だけでは背負いきれない苦しみを味わう瞬間は必ず訪れる。その姿を、ここではアパートという小さなコミュニティを通じて描き出しているわけだ。

なかでも印象が強いのは、山田の隣に住む“島田”の図々しさ。初対面なのに「給湯器が壊れたんだわ、風呂貸して」とノックなしで部屋に上がり込み、「なあに、気にするな」とばかりに押し通る姿に、山田だけでなく観る側も「うへぇ」となるかもしれない。けれども、これがきっかけで山田は否応なしに他人との関係を持たざるを得なくなる。孤独であろうとする山田と、馴れ馴れしい島田。この凸凹っぷりが、意外や意外、彼らの人生を好転させるターニングポイントになっていくのだから面白い。

島田は、自分で作った野菜を無償で渡してくれたり、勝手に風呂に入ってきたり、好き勝手振る舞っているようでいて、その実すごく人間らしい。洗濯物はどうしているのか、部屋には何があるのか、収入源は?――といった疑問は正直尽きないのだが、妙な魅力にあふれている。野菜を山田の部屋に持っていって「このキュウリ、食っとけ」などと軽い口調で差し出す姿は押しつけがましいようで、実は「誰もひとりでは生きられないんだから、少しは力を借りろよ」と言っているようにも見えるのだ。

山田は最初こそ島田を鬱陶しがる。だが、お腹を空かせていたタイミングで受け取った野菜をかじったときに見せる、あの凄まじい勢いは見ている側もハッとさせられる。自分が想像する以上に「生きるための糧」を求めていたのだ。人間は食べなきゃやっていけない。当たり前のことだが、その当たり前をすっかり置き去りにしていた山田が「食べる喜び」に触れることで、徐々に自分を取り戻していく。しかも、それがひとりの食事ではなく誰かと一緒だという事実が重要だ。たったひとり部屋にこもってインスタント食品を食べるのと、目の前に人がいて米や野菜を分かち合うのとでは、満足感がまるで違う。ここが本作を語る上で欠かせないポイントになっていると思う。

また、「ハイツムコリッタ」には他にもユニークな住人がいる。墓石販売の仕事をしている中年男性“溝口”は、常に喪服姿で葬儀の香典袋まで持ち歩いているのが妙に不気味だが、その裏には「仕事がほとんどなくて困り果てている」事情がある。しかし彼は決して暗いわけではなく、ときどき見せる笑みはなんとも言えない迫力を放つ。お金がないくせに誰かがすき焼き用の牛肉を買ってきたと聞くと、こっそり混ぜろとばかりに参加してしまう。その瞬発力の高さには半ば呆れつつも、憎めない愛嬌を感じる人も多いはず。

大家である“南”にもまた秘密があり、シングルマザーとして娘を育てつつ、アパートの管理に追われる日々を過ごしている。しかし明るい笑顔の奥には、時折ひやりとする発言が混ざり込む。人生には思い出したくないことや受け入れにくい現実があるのだと、南の姿からもうかがえる。いずれも抱えるものは違うのに、彼らはどこかで小さく手を取り合って生きている。それがすこぶる自然体なのだ。まるで「大変だろうけど、まあ食ってけば何とかなるか」みたいな合言葉が聞こえてくるかのような居心地の良さを放っている。

ところが、ひょんなことから山田のもとに「父親の死亡通知」が届く。どうやら4歳の頃に生き別れたらしく、記憶も薄い上に連絡も取っていなかったというから、いきなり遺骨を引き取れと言われてもピンとこない。だが、この出来事こそが山田の内面を大きく揺さぶり、父親の遺骨との格闘が物語の鍵になっていく。しかも、その過程で“役所に大量の無縁遺骨が保管されている”という現代の厳しい現実までも映し出されるのだから、なんとも心に重い。だが本作は、それらを必要以上に悲壮感たっぷりに描くわけでもない。むしろ不思議なやり取りや少しずれた会話の数々を通じて「人の死と残された者との向き合い方」を柔らかく見せてくれる。これが絶妙な塩梅だ。

例えば、父親の遺骨を部屋に置いた山田が、怖くなって川へ捨てようとする場面。後ろめたさと恐怖が混ざった表情で川辺に向かうが、住職をしている島田の幼なじみが通りかかって止めてくれる。いきなり「ドバーッ」と流すような非常識な行動はさすがにまずい。しかし一方で、山田の気持ちも分からなくはない。残酷なまでに離れていた父親との、いきなりの再会が「遺骨」なのだ。死者へのやりきれない思いや戸惑いは人それぞれ違うし、山田にとってはこれがどうしても受け止めきれなかったのだろう。そんな状態の彼をアパートのみんなは一方的に責めるでもなく、かといって同情しすぎるわけでもない。おかしな勢いで助け船を出し合う姿が滑稽にも見えるが、その滑稽さにこそ本作ならではの奥行きがあるように思う。

塩辛工場の社長や、無口だが優しさを持つ同僚との交流を重ねるうち、山田は「自分が前科者でも、いっしょに飯を食って、隣に住んで、日々を過ごすことはできるんだ」と実感していく。しかし同時に「そんな自分に幸せを感じる資格があるのか」と思い悩む場面も多い。人はときどき、自分の過去を振り返って「自分はどうしようもないやつだ」と卑下し、幸せを手に入れるのを無意識に拒んでしまうことがある。山田はまさにその状態に陥りかけるが、島田や南、それに溝口らが引きずり上げる形で彼を孤独から解放していくのだ。

そして特筆すべきは、彼らがそろって“すき焼き”を囲む場面。貧乏暮らしには縁遠いごちそうを、ふとした拍子に手に入れてしまった溝口が「せっかくだからみんなで食うか」と声をかける。島田は「ただで食べていいの?」とちゃっかり乗っかり、山田もつられて参加。挙句には南までやってきて、狭い部屋に食器を持ち寄り、わいわいと箸を伸ばしていく。普段なら途方に暮れるような環境の人間が集まっているはずなのに、そのときだけは「あれ?結構幸せだな、これ」という表情で牛肉を噛みしめている。人生で味わう苦しみも孤独感も、そういう一瞬の輝きの前では小さくなるのかもしれない。そう思わせる、心にグッとくるシーンだ。

結局、山田は父親の遺骨をどう扱うのか。彼は最後に大胆な行動を取る。ネタバレを承知で言ってしまうと、骨をすりつぶし、川沿いの道を歩きながら撒いていくのだ。ずいぶん乱暴にも思えるが、実はこの行為には「父親をいなかったことにはしないし、自分の人生に取り込んで生きる」という決意が隠れているように見える。アパートの住人たちも「それなら盛大に送り出そう」とばかりに楽器を持って行進し、ちょっとしたイベントめいた雰囲気になる。重いテーマのはずなのに、その光景にはどこか解放感が漂っているのが不思議だ。深刻な場面であっても、人と人が支え合うことで変わる空気ってやつを象徴しているのかもしれない。

作中のキモとなるのが「ムコリッタ」という言葉。仏典に記される時間の単位らしく、約48分ほどを指すという。1日は1440分だから、そのうちの48分はほんの一部分でしかない。しかし、本作が描くのは「人の人生を変えるのに必要なのは、そんな僅かな時間の積み重ねではないか」というメッセージだと感じる。劇中の人々が人生をやり直すきっかけや、誰かとの思い出を作る瞬間は、たいてい大仰なイベントではない。キュウリをポリポリ食べる時間だったり、すき焼きを囲むちょっとした宴だったり、川辺で立ち止まるひとときだったり……。どれも特別な儀式とは言えない、ごくささやかな日常の一コマである。だが、そうした場面の積み重ねこそが人を救うのだという視点が、本作には一貫して流れている。

だからこそ、全体としては不思議と温かな後味が残る。どんなに辛い過去や絶望的な状況があっても、小さな助け合いやどうでもいい雑談が活路を作り出す。どこか抜けたようなアパートの空気が、凍りついた心にじわっと染みてくる。観終わってから思わず「晩飯は誰かと一緒に食べようかな」という気持ちにさせられる作品だ。感傷や哀愁だけでなく、底にある柔らかさをきちんと感じ取れるならば、この物語に込められた妙な魅力をたっぷり味わえるはずである。

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映画「川っぺりムコリッタ」はこんな人にオススメ!

ここではおよそ八百ほど語っていこう。まず「孤独」という言葉に敏感な人や、誰かとちゃんと向き合いたいのにうまくいかない人、そして過去の過ちや後悔を引きずりがちな人に向いていると思う。登場人物たちがみんな「どこか傷を負っている」という点は、観る者に安心感を与えるかもしれない。「自分だけじゃないんだ」という気づきは、それだけで救いになる場合があるからだ。

さらに、人付き合いが苦手だとか、突然誰かに部屋へ上がり込まれたら困るんじゃないかとか、そういった社交面に苦手意識のある方にも刺さる要素がある。山田が最初は島田を邪険にしても、結局はその“強引な距離の詰め方”によって助けられるのだ。何かと遠慮してしまいがちな人なら「こんなずうずうしい隣人も悪くないかも」と思わされるかもしれない。

また、定職に就けない、もしくは就きたくない、だけど生きていかなきゃいけない……という人にも共感を呼びそうだ。アパートの住人たちは現実的には厳しい境遇だったりするが、それでも米を炊き、味噌汁をすすり、野菜をかじってなんとか暮らしている。立派なことを成し遂げるよりも、今日食べるご飯をどう確保するかを優先している彼らの姿は、ある意味で人生の真理を突いているのかもしれない。

さらに言えば「人生を大きく変えるのは意外と些細な瞬間かもしれない」と思っている方にもぴったりだ。本作の核心となる“わずか48分”という考え方は、壮大な成功譚を求める物語とは真逆であり、小さな出来事の積み重ねにこそ意味があると語っている。毎日バタバタと生きていて見逃しがちな一瞬を大切にしたい人や、何気ない日常に癒やしを感じたい人ならきっと共感できるだろう。要するに「大げさな展開が苦手だけど、どこか暖かいものを探している」人たちにとっては、観たあとに少しほっとできる作品だと思う。

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まとめ

最後に五百ほどでまとめておきたい。本作は“生と死”を扱いながらも、重苦しさだけで終わらせない構成が印象的である。刑務所から出てきたばかりの主人公、あやしげな隣人たち、そして過去にさまざまな出来事があったであろう住人同士の交流。たとえ暗い経験を背負っていても、誰かと一緒に食卓を囲めば笑い合うことができる。その温かさがメインテーマのひとつだと感じる。

そして、仏教の単位である「牟呼栗多」をタイトルに据えることによって、人生を左右するような大きな転機も、実はささいな時間の積み重ねなのだと教えてくれる。48分をどう過ごすかが未来を変えるかもしれないし、ほんの一口の食事が人と人を繋げる。そうした小さな出来事が、気づかないうちに大きな力になっていくのだろう。キャラクターたちがアパートで織り成す緩やかな日常は、そういう奇跡をさりげなく提示しているように思う。

最終的に「自分に幸せを感じる資格なんてあるのか?」と悩む主人公が、自分なりのやり方で父親を送り出し、アパートの住人とともに葬列を行う場面は泣き笑いを誘う。過去のしがらみを抱えつつ、それでも食べて生きていくんだという決意の物語として、多くの人の心を軽くしてくれるだろう。