映画「湯道」公式サイト

映画「湯道」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!

本作は、生田斗真が主演を務める銭湯を舞台にした群像ドラマである。父親の遺した古い銭湯を畳むか、守るかをめぐる兄弟の葛藤が軸となり、そこに集う常連客の人間模様がにぎやかに描かれている。タイトルにもある“湯道”という独特の概念が作品全体を包み込み、「ただ風呂に入っているだけじゃない」日本独特の文化の深みを再発見させてくれる仕掛けが印象的だ。いかにも豪華なキャスト陣の起用や、銭湯の風情を存分に生かした映像表現に加え、ちょっと意外な角度から湯に浸かったときの喜びや「人を素のままにさせる」開放感が強調されているのが見どころである。ところが、いざ蓋を開けてみると、思っていた以上に笑いあり涙ありの展開が待ち受け、観終わってから思わず「銭湯に行きたいな」と感じさせる説得力を持っている。

今回はそんな作品の核心にグイッと踏み込み、兄弟げんかから常連客のエピソードまで、刺激的な視点も交えつつ語っていこうと思う。なお、本稿では結末にも触れているので、未視聴の方はご留意いただきたい。

映画「湯道」の個人的評価

評価:★★★☆☆

映画「湯道」の感想・レビュー(ネタバレあり)

本作の最大の特徴は、なんといっても「湯」という存在をめぐる深いまなざしにある。お風呂に入るといえば、日々の疲れを癒やすために湯船に浸かるごく当たり前の行為だ。しかし、この映画では「湯に浸かること」を極めて文化的、精神的な営みとして捉えており、「これ、どこかで聞いたような“道”の考え方と似ているぞ」と思わせる。いわゆる茶道や華道のように、湯を扱う作法や心構えを独自に体系化した“湯道”が物語の中心をしっかりと支えているのだ。

そんな作品の主人公である三浦史朗(演:生田斗真)は、東京で建築家として働きながらも、やむを得ない事情で実家の銭湯に戻ってきた男だ。彼が帰郷した本来の目的は、亡き父の遺した銭湯「まるきん温泉」をマンションに建て替える計画を弟の悟朗(演:濱田岳)に持ちかけること。ところが、長年店を切り盛りしてきた悟朗にとっては銭湯こそが生活の基盤であり、父の遺志を感じる大切な場所でもある。そんな両者の思いが真っ向から対立し、さらにボヤ騒ぎまで起きてしまう。史朗にしてみれば都会の実用主義的な視点で銭湯を見ており、すでに時代遅れかもしれない老朽施設をうまく再開発して経済的な利益を得ようと考えるのも無理はない。しかし、弟としては何よりもそこで生きてきた思い出や日常のかけがえのなさを守りたい。兄弟ゲンカがヒートアップする展開は予想の範囲内だが、実際に見ているとドタバタ感が増幅され、いかにも日本の昭和的な人情が息づく銭湯シーンと相まって、どこか懐かしい空気が漂う。

一方、物語の裏側で存在感を放つのが、“湯道”を学ぶ人々である。作中では家元の薫明(角野卓造)が体調を崩しているため、代わりに内弟子を務める梶斎秋(演:窪田正孝)が、湯を愛する者たちに所作や心得を伝授する場面が登場する。湯を汚さないための細かな作法や、湯船に向かうまでの動作のひとつひとつに「人を思いやる」「自分自身を見つめ直す」といった精神性を込める姿が滑稽に見えて、実はかなり真剣だ。特に斎秋が演じる動作は、独特の美しさを備えており、「なるほど、湯をこんな風に尊んでいるのか」とうならされる。それがまたコメディタッチの空気と交わって、不思議な魅力を放っている。

さらに、郵便局員の横山正(演:小日向文世)が“湯道”を学んでいることが物語をより多面的にしている。実直で家庭を大事にするタイプながら、自宅に檜風呂を導入したいという密かな夢を持つ横山は、いかにも真面目そうに見えて実は人生をもっと豊かにしようと奮闘中だ。彼が湯道会館で真剣に話を聞く姿や、家族にどう提案すべきか頭を抱える様子は、どこか共感を誘う。仕事や家族との兼ね合いで、趣味や理想を貫きにくい現実があるのは多くの人にとって他人事ではないだろう。

そして、“まるきん温泉”にはもう一人欠かせない存在がいる。バイトとして住み込みで働く秋山いづみ(演:橋本環奈)だ。華やかなファッション業界から一転して銭湯勤めに身を置くことになった過去は、彼女自身の挫折感や価値観の変化を物語っている。派手な世界から離れ、素朴な銭湯の空間で自分を取り戻す過程が明かされるにつれ、「人は裸になると皆平等」という銭湯の持つ包容力が説得力を増してくるのだ。いづみは若者らしい感性を持ちながらも、どこか吹っ切れているような楽天性があり、結構芯が強い。史朗や悟朗の間に入って気遣いを見せつつ、必要なときには自分の意見をハッキリ伝える姿は、爽快感すら覚える。

その“まるきん温泉”が、ある事件をきっかけに休業せざるを得なくなる。火事騒ぎの発端は兄弟のケンカが原因で、ボイラー室の火が爆発を起こしてしまうものだが、これが結果として史朗にとって大きな変化をもたらす。弟が入院で不在となり、店を開けるかどうか迷う中で、史朗は風呂仙人と呼ばれる謎の男(長髪・白髭でやたらと説教じみた口調をしている人物)や常連客たちに助けられながら、一時的に銭湯を切り盛りすることになる。最初は勝手がわからず、湯温ひとつ合わせるのにも手こずる史朗だが、回を重ねていくうちに「毎日湯を沸かし続けるって、なかなかすごいことだな…」と気付き始める。いざやってみると単なる肉体労働ではなく、来る人を気持ちよく迎えるための心配りが必要で、しかもコミュニティの核としての役割まで担っているのだ。このあたりが本作の肝であり、「銭湯って、入る人だけでなく沸かす側にとっても精神修行的なものがあるのか」と感心させられる。

常連客のなかでも注目したいのは、やはり横山や高橋夫婦(近所の料理屋を営んでいる)といった顔ぶれだ。壁を隔てて桶をコンコンと打ち鳴らす合図で、互いの気配を感じ合う光景は、ちょっとした見どころである。男湯から「コンコン」、女湯から「コンコンコン」と返ってきたりすると、視覚的には姿が見えなくても心が通じ合う。家族や夫婦がケンカをしながらも銭湯という第三の空間で仲直りできるのは、「お風呂」という開放的な場が持つ独特の魔力なのだろう。ここには誰が来ても平等で、肩書や体型は関係なし。「今日もあったまったね」「じゃあ、お先に失礼します」と見知らぬ人同士も挨拶するような、日本文化特有の温かい情景が浮かぶ。

だが、そんなのどかな空間を「昭和の遺物だ」とバッサリ斬り捨てる人物も登場する。それが温泉評論家を名乗る太田与一(笹野高史とは別の立ち位置で存在感を示すベテラン俳優)だ。厳密には温泉じゃないのに「温泉」と名乗る銭湯に敵意をむき出しにし、一切湯に浸からず不機嫌そうに帰ってしまう。今どきは湯量豊富な天然温泉施設やスーパー銭湯が台頭している時代だ、という言い分もわからなくはない。しかし、この映画はまさにそうした意見に対し「銭湯の良さって、そこじゃないでしょう」と問いかける。最後には太田自身が再び“まるきん温泉”を訪れるが、そこで繰り広げられる常連客の言葉や史朗の反論が本作のメッセージを象徴しているように感じられる。

ストーリーが終盤に進むに従い、兄弟の確執が緩和されると同時に、父親の遺書の存在が浮かび上がる。そこには銭湯を売却するように書かれていたが、それと同時に「果たしてそれが本当に家族の幸せなのか」を問う気配が見え隠れする。悟朗が言う「続けたい気持ち」と史朗の「もう時代遅れだろう」という考えの折り合い。どちらの言い分も正しく、どちらにも苦悩や言い分があるだけに、結論が一方的に押しつけられないところが面白い。「本当に自分たちはどんな場を守りたいのか」「それによって誰かを幸せにできるのか」という観点が最終的な落としどころになっている。

また、真打ち登場ともいえるのが山奥の五右衛門風呂シーンだ。史朗と悟朗が山奥へ赴き、いづみのルーツにも関わる秘湯を体験する場面は、本作の中でもひときわ印象深い。水を汲み、薪を焚いて火加減を見極め、ようやく浸かった湯のありがたさ。兄弟二人が五右衛門風呂に並んで肩まで浸かりながら、素直にお互いを認め合っていくプロセスが、作品が描きたかった「湯に身をゆだねる」ことの大切さを端的に示しているようだ。そこには大自然への感謝もあれば、同じ湯を分かち合うことで過去のわだかまりを流すような効果もある。湯道が語る「感謝と慮り、そして自己を見つめ直す精神」は、このシーンでさらに強く伝わってくる。

そうして悟朗が自分なりの答えを出し、史朗も迷いながら最終的に「銭湯をどうするか」という決断を下す。物語のラストでは、家元の後継問題や常連客のその後にも決着がつくが、何より肝心なのは、“まるきん温泉”に吹いた新しい風だ。湯道の世界と銭湯というリアルな生活空間がリンクしていくなかで、主人公も常連客も「湯によって人が繋がる」という原点に立ち返る。そこに古臭さだけではない、むしろ現代人こそ必要とする安らぎや多様な価値観の受容を見出せるのが本作の良さといえる。

一方、気になる点を挙げるなら、主要人物の数が多いぶん一人ひとりの掘り下げが浅く感じるところだ。豪華な顔ぶれが揃っているがゆえに「もうちょっとこのキャラを深く見たかった」という欲求は出てくる。特に温泉評論家の立ち位置や、湯道家元のエピソードなどは駆け足気味で、あっという間に解決してしまう印象があった。また、映像的には銭湯や五右衛門風呂など風情を感じられる描写は満載だが、脚本のテンポが良い分、劇的な盛り上がりやサプライズ感はやや控えめ。あくまで穏やかな人間ドラマとして楽しむほうがしっくりくる作品である。

もっと大胆に「人はなぜ裸の付き合いを求めるのか」という哲学的アプローチに踏み込んでも面白かったかもしれないが、それをやりすぎると重苦しくなりそうでもある。本作はあくまで軽快さを重視しているため、あと味の良い作品に仕上がっているといえる。勢いだけで突き進む展開というよりは、「銭湯がもたらすほんわかした温度」と人間模様を味わう映画。そう割り切るなら、「風呂屋」というユニークな舞台設定が存分に堪能できるはずだ。

まとめると、『湯道』は湯文化の新たな魅力を再確認させてくれる一本だ。観終わったときに「銭湯に行きたいな」と思えるかどうかは、人によって感想が分かれるかもしれない。ただ、兄弟や常連客たちが一つの湯船を通して少しずつ変わっていく様子、そして独特の作法を真剣に取り組む人たちの姿を見ると、「お風呂はただ体を洗うだけの場所じゃない」というメッセージが強く伝わる。しかも、実生活でも銭湯が減少している昨今だからこそ、改めて銭湯の意味や価値を考えるきっかけになる作品でもある。あまり肩ひじ張らずに、飲み物片手に気軽な気持ちで見てみると、程よい満足感が得られるはずだ。

映画「湯道」はこんな人にオススメ!

まず、昔ながらの銭湯文化が好きな人にはぴったりだ。番台に座る人との軽妙なやり取りや、暖簾をくぐって男女別れた直後に広がるあの空間。そうした風情に心をくすぐられるなら間違いなく楽しめる。さらに、家族で風呂に入るエピソードや、仲の良い友人と銭湯へ繰り出すような体験を持つ者にとっては、ノスタルジックな情緒をかき立てられるかもしれない。

また、バリバリ働く都会派の人にも意外と刺さる要素が多い。毎日忙しくしていると、自宅の風呂ですら湯舟にのんびり浸かる余裕もなくシャワーで済ませがちだ。しかし、本作では火を焚いて湯を沸かすことの大変さと、その先にある「じっくり体を温める」ひと時の尊さが繰り返し強調される。これを観た後は「ちょっと週末に銭湯巡りしてみようかな」とか「温泉旅行でも計画してみようか」といった余暇の過ごし方を考えたくなるかもしれない。

一方で、兄弟や家族との衝突やすれ違いに悩んでいる人にも響く要素があるだろう。裸のつき合いとはよく言うが、同じ湯船に浸かっていると、服を着ているときには見えなかった相手の人間らしさを感じる瞬間がある。本作では史朗と悟朗が対立しながらも、お風呂の熱さに顔をしかめたり、大声で叫んだりするうちに、張り詰めていた気持ちが少しずつほどけていく。なにか大げさな和解シーンが用意されているわけではないが、湯のちからがじわじわと二人の距離を縮める様子は、観ていて「ああ、こういうきっかけって大事だな」と実感させるはずだ。

ほっとする作品を探している人や、日本の風呂文化を題材にしたユニークなドラマに興味のある人に勧めたい。ひとしきり笑って、ちょっぴりジーンとさせられる仕上がりなので、気分転換にも良いだろう。「週末のレジャーは何にしようか」と迷ったときの一案として観てみるのも悪くない。

まとめ

兄弟ゲンカに、常連客のこまやかな人間模様に、“湯道”という一風変わった教えの存在。映画「湯道」はこれらを見事にかけ合わせ、古びた銭湯を舞台に新鮮なドラマを作り上げている。

単なるノスタルジーにとどまらず、各キャラクターの背景や想いがしっかり描かれているため、「風呂」というテーマだけで最後まで惹きつけられるのは大したものだ。とりわけ、湯を沸かし、湯船を掃除し、客を迎えるという地道な営みそのものが尊く描かれる点が胸を打つ。観た後に「やっぱり銭湯っていいな」と思わせる説得力が備わっている。

本作の評価は“そこそこ”かもしれないが、実際に鑑賞すれば湯気のようにじんわりと心を温めてくれるはずだ。もし近くに銭湯があるなら、鑑賞後はぜひタオル片手に出かけ、ちょっと贅沢な湯の時間を味わってみてはどうだろうか。