映画「52ヘルツのクジラたち」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!
どうも、映画の暴れ馬(自称)こと筆者である。今回取り上げるのは、近年まれに見る“超ド級”の人間ドラマ映画「52ヘルツのクジラたち」だ。正直なところ、「クジラの映画って癒し系だろう?」と舐めてかかっていたら、開始数分でその先入観は遠く彼方へブッ飛んだ。虐待やトラウマ、そしてセクシュアルマイノリティといった重厚かつ複雑なテーマが織りなすストーリーは胃にガツンと響くし、主演・杉咲花の圧倒的な熱演は観客の心を容赦なく振り回す。
とはいえ、その一方で途中挟まるシーンは美しく叙情的で、「苦い涙を飲み込みながらも前へ進む」パワーを与えてくれる不思議な魅力がある。大人になると、なかなか自分の声を素直に上げづらいものだが、本作を観れば「孤独や声なきSOS」を一緒に抱えてくれる仲間がどこかに必ずいると思えるはずだ。ではさっそく、ネタバレ覚悟で激辛トークを繰り広げていこうではないか。
映画「52ヘルツのクジラたち」の個人的評価
評価:★★★☆☆
映画「52ヘルツのクジラたち」の感想・レビュー(ネタバレあり)
本作「52ヘルツのクジラたち」は、主人公・三島貴瑚(杉咲花)が海辺の街に移り住むところから幕を開ける。タイトルにもある「52ヘルツ」は、仲間に周波数が届かず“世界で最も孤独なクジラ”といわれる存在を示す言葉だ。この映画では、仲間外れになってしまうクジラを暗喩として、“社会の中で孤独を抱えた人々”の姿を真正面から映し出す。
筆者は鑑賞初っ端からこのキーワードに心を鷲掴みにされたが、正直言って作品全体はただの美談や応援歌に留まらない。虐待、DV、家庭の呪縛、介護、セクシュアリティの悩みなど、重くて苦しいテーマが一気に押し寄せてくるからだ。では、その濃厚なストーリーを順を追って語っていこう。
1. 孤独な海辺の街へ──貴瑚の出発点
まずは主人公・三島貴瑚。彼女は東京で散々な目に遭い、祖母が暮らしていた海辺の一軒家へ逃げ込むようにやって来る。いわゆる「田舎への移住」だが、田舎特有の閉鎖的な噂や干渉が彼女をさらに追い詰める部分もあり、さっそく前途多難である。「田舎=のどか」なんて悠長なイメージは幻想だと痛感させられるシーンが多く、飲み込まれそうな人間関係にヒヤヒヤさせられる。
にもかかわらず、貴瑚がここに腰を据えたのはなぜか。そこには彼女が抱える虐待のトラウマと、すでに亡くなったかつての恩人・岡田安吾(志尊淳)への想いが大きく絡んでいる。
2. 少年との出会い──「ムシ」から「52」、そして本当の名前
貴瑚が新居でなんとか生き延びようとしていた折、声を失った少年(通称:ムシ)と出会う。母親から虐待され、食事もままならず「ムシ」扱いされているのだ。これだけでも十分胸が痛むが、貴瑚自身も過去に虐待やDVを受けていた。だからこそ放っておけない。作中、貴瑚は少年を「52」と呼ぶことにする。これは先述の“届かない声”を体現するクジラにちなんだものだ。どこか痛々しくも希望を帯びたネーミングで、貴瑚なりの優しさが見え隠れする。
ただ、現実世界で「親がわが子をムシ扱いする」などあってはならない話だと思いきや、残念ながらそれはしっかりと起こっている悲劇だ。本作ではこの衝撃的な状況がリアルに描かれ、それが視聴者に「社会の裏側」をガツンと突きつける。筆者などは映画館で「なにこれ……つらすぎる」とため息交じりに観ていたが、その分、「頼むから救いの光を差し込んでくれ」との期待も募った。
3. 過去に囚われる人々──トラウマの連鎖
本作のもう一つの軸が、貴瑚の回想シーンに登場する岡田安吾と新名主税(宮沢氷魚)の存在である。
- 岡田安吾(通称:アンさん)
トランスジェンダーの塾講師で、貴瑚の声なきSOSをいち早くキャッチし、彼女を救おうと尽力した過去がある。が、社会的理解の乏しさもあって苦しみを抱え続け、最終的には思いもよらぬ悲劇を迎えてしまう。 - 新名主税
一時は貴瑚の恋人となった男性だが、裏の顔はなかなかに危険。地位と立場、そして歪んだ愛情で貴瑚を支配していく。序盤では「爽やかイケメン」風を装いながらも、仕事上のトラブルやプライドのしがらみをきっかけに豹変するギャップが恐怖そのものだ。筆者は観ながら「何このDVフラグの標本」とひそかに戦慄したほどである。
どちらの人物も貴瑚にとっては“人生を変えた存在”であり、彼らとの関わりが彼女を追い詰めもすれば救いもする。実際、過去のシーンはかなり生々しく、そこだけ見たら別映画かと錯覚するほどのインパクトだ。特に志尊淳が演じる安吾は、穏やかな笑顔の奥に壮絶な葛藤を抱えている。筆者は「この人こそが本物の52ヘルツなのでは?」と思ったくらい、周囲に理解されにくい孤独を生きているように見えた。
4. 「魂の番」とは何か──届かない声を聞く力
物語の大きなキーワードとして「魂の番(たましいのつがい)」という表現が登場する。これは、自分の声なきSOSを唯一キャッチしてくれる相手のことを指しているようだ。孤独のどん底にいるとき、周波数の合う誰かに出会えたら、それは奇跡としか言いようがない。この映画では、貴瑚がアンや52とのやり取りを通じて、その“魂の番”をつかもうと懸命にもがく。
ただし、ここに甘いロマンチックさはない。最終的にはアンが悲しい結末を迎えるからこそ、貴瑚の中には「自分が呼びかけた声を聴き取ってくれたのに、救えなかった」という喪失感がずっと残る。愛とは時に呪いのように人を縛り、同時に人を救うパワーでもある。そこが愛憎入り交じる本作の魅力でもあり、観ている側としては胸が締めつけられる場面が多々あるのだ。
5. 杉咲花の芝居力とキャストの妙
杉咲花の演技力については、もはや語るまでもないが、やはり本作でも「圧」がすごい。痛みや悲しみ、希望や怒りなど多彩な感情が、わずかな表情や声のトーンに現れている。彼女が涙を浮かべるシーンなど、まるで感情そのものがこちらに流れ込んでくるような迫力だ。
また、安吾役の志尊淳が見せる切なさと決意も印象的。冷静で穏やかそうに見えて、その実、とんでもない量の苦しみを抱えていたキャラクターを繊細に表現している。筆者は正直「こんな複雑な役、ちゃんと演じきれるのか」と思っていたが、蓋を開けてみれば納得の出来だった。
宮沢氷魚が演じる主税も、さわやかな顔に反して腹黒い側面を徐々に露呈させていくギャップはお見事。彼のようなキャラクターは日常にも潜んでいそうで、観客をゾクッとさせる恐ろしさがある。
ほかにも西野七瀬が演じる琴美や、小野花梨の美晴など、脇を固める俳優陣も存在感抜群だ。要所要所で見せるちょっとした表情やセリフ回しに、それぞれの人生観が滲み出ている。「あ、この人の生きづらさもあるんだな」と感じさせる説得力があるので、ぜひ注目してほしい。
6. 重いテーマを支える映像美と音楽
本作には虐待やDVなど重くのしかかる要素が多いが、映像や音楽も巧みに使われていて、ただただ暗いだけの作品にはなっていない。海辺の町の風景は、どこかしら懐かしさと癒しを感じさせてくれるし、劇中の光の差し込み方や自然の音、さらには挿入歌(「リンダリンダ」など)が絶妙に心を動かす。
特に、孤独で苦しい場面の直後に映る、美しく澄んだ海辺のシーンなどは「それでも日常は続いていくんだ」というメッセージを放っているようだ。かなりヘビーな題材にもかかわらず、最後まで観客をスクリーンに引き止めてくれるのは、このビジュアルとサウンドの力も大きい。
7. 本作のパンチ力はどこにあるのか
この映画、結局は何が一番魅力的なのか。筆者が思うに、「傷ついた人間の声を真正面から扱っていること」に尽きる。世の中、弱者やマイノリティに対して優しい言葉を並べるだけの作品もあるが、本作はそこに“生々しい痛み”をしっかり突っ込む。
「自分の声が届かないならば、それを受け止める人を探すしかない」とでも言うように、貴瑚はもがきながらも“次の一歩”を踏み出していく。その過程には苦しさも裏切りもあるが、最後には一筋の光が見えるからこそ、観終わった後には「暗いけど妙に前向きな気分」になる。不思議な快感だ。
8. クジラの鳴き声と人間の叫び
作中で象徴的なのが、「52ヘルツのクジラ」というモチーフである。周波数が合わず、仲間に声が届かないクジラの存在は、まさしく“孤独”のメタファーだ。貴瑚、安吾、そして52(少年)が、周囲に理解されず苦しむ姿とクジラは完全にオーバーラップしている。
一方で、ここには“だからこそ響く声もある”という希望も含まれているように思う。周波数が異なるからといって、必ずしも全てが届かないわけではない。映画の終盤では少年が小さな声を取り戻し、貴瑚がかつて自身を救ってくれた安吾を想いながら、もう一度立ち上がる。彼女たちは確かに孤独かもしれないが、完全な孤立ではないのだ。
9. 細部に宿るリアリティとフィクションのバランス
現実にありえそうな事件・問題がてんこ盛りな作品だが、あくまでフィクションとしてドラマチックに描かれている部分も多い。「こんなトラウマの総合デパートみたいに重なって起こるか?」とツッコミたくなるが、そこが映画としてのエンタメ性を高めているのも事実だ。
そうした“盛りすぎ感”を差し置いても、貴瑚と52の交流、安吾と貴瑚の出会い、主税の豹変など、それぞれのエピソードが胸に突き刺さる。現実的に描きすぎると鬱々として観られなくなる可能性があるが、本作ではぎりぎりのバランスで心地よいショックを与えてくれる印象だ。
10. 結論──声なき声に耳を澄ませたいなら必見
結局、映画『52ヘルツのクジラたち』 の感想としての総括を一言で言えば、「生々しいけど、観て良かった」である。辛いシーンも確かに多いが、そこには人間の本質が詰まっていて、もうすでに自分の周波数が隣の人と合わないのではと悩んでいる人にはぜひオススメしたい一本だ。
重厚なテーマ、役者の演技、切ない音楽、そして孤独を超えていくストーリーライン。初めて観たあと、思わず筆者は映画館の座席に5分ほど固まっていた。そこから立ち上がり、一歩を踏み出すとき、「ああ、この映画で提示されたメッセージってのは案外大きいな」と実感した次第である。
映画「52ヘルツのクジラたち」はこんな人にオススメ!
映画「52ヘルツのクジラたち」は、正直言って元気いっぱいの人が観るよりも「ちょっと凹んでる」「傷つきやすい」「最近モヤモヤすることがある」という人にこそ刺さる作品だと思う。特に次のようなタイプの人には全力でオススメである。
- 自分の声が届かないと感じている人
職場や家庭、学校などで「話が通じない」「誰もわかってくれない」と感じる人には、この映画の登場人物たちの孤独や葛藤が他人事とは思えないはずだ。クジラの孤独になぞらえる描写が多いため、どこかで「自分もそうかも…」と共感して目頭が熱くなるかもしれない。 - ヒューマンドラマ好きで泣きたい人
「とにかく胸が熱くなる人間ドラマが観たい」「涙を流したらスッキリできそう」という方には持ってこい。各キャストの泥臭いほどの熱演が魂にガンガン響いてきて、気づいたら涙腺が崩壊しかけている。ハンカチのご準備をお忘れなく。 - 社会問題に興味のある人
虐待やDV、セクシュアリティの話題など、現代社会が抱える問題がかなりストレートに描かれている。社会派テーマの映画が好き、あるいはそういった分野に関心があるなら、学びや発見があるはずだ。安易なハッピーエンドに逃げない展開も考えさせられる要素が多い。 - 美しい映像と音楽を楽しみたい人
重いストーリーとは対照的に、海や自然が織りなす風景は絶景である。そこに重なる音楽の空気感が見事で、「心が荒んだときにこそ味わいたい美しさ」が詰まっている。暗い要素の多い物語を不思議なほどさわやかに感じさせるのは、この映像美とサウンドの効果が大きい。
要するに、何かしら孤独を抱えている人や、ちょっとだけ疲れてしまった人、それでも前に進みたい人にオススメだ。「自分だけは違う」と思って観に行くと意外なところでグサッとくる可能性があるのでご注意を。とはいえ、本作を観終わったあとには「自分の居場所って案外どこかにあるもんだな」と思えるかもしれない。
まとめ
映画「52ヘルツのクジラたち」は、一見すると“エモい人間ドラマ”に見えて、その内側はなかなかの激辛スパイスが効いている。家庭内虐待やDV、トランスジェンダーへの偏見など、題材はずっしり重いが、その苦さの奥には確かに愛や希望も感じられる仕上がりだ。主人公・貴瑚の奮闘は、他人事ではなく自分自身の物語にも通じる部分があるかもしれない。
孤独を象徴する「52ヘルツのクジラ」が、実は私たち誰しもの胸の中に隠れているのではないか。声を上げたくても上げられない瞬間、SOSをキャッチしてくれる相手を見つけられない瞬間、その苦しさを映し出すのが本作だ。
しかしながら、深い孤独や重たい悩みに寄り添いつつ、ほんのり救いの光も提示してくれるため、観終わったあとには意外な爽快感がある。人生は苦いことも多いが、周波数がピッタリ合う相手がどこかにいるかもしれない、と少しだけ信じたくなる映画である。激辛かと思いきや後味は悪くない。そんな不思議な魅力を持った一本だ。