ベートーヴェン捏造

映画「ベートーヴェン捏造」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!

「楽聖ベートーヴェン」の崇高なイメージは、実は一人の男によって完璧にプロデュースされた「作品」だった――。

こんな、歴史の教科書を根底からひっくり返すような知的スキャンダルを、一体誰が映画にしようなどと考えたのか。

その首謀者たちの顔ぶれを見て、まず度肝を抜かれた。

原作は、学術的な事実を丹念に追ったノンフィクション。

なのに、脚本を手掛けたのは芸人にして作家のバカリズム。

そして監督は、ミュージックビデオの世界で映像美を極めた関和亮。

硬質な歴史の真実を、日本屈指のコメディアンと映像の奇才が料理する。

この座組自体が、もはや壮大な企みだ。

本作は、単なる歴史コメディではない。

「真実」と「嘘」、「事実」と「物語」の関係性を、極めて悪趣味かつスタイリッシュに解剖してみせる、挑戦的な一作である。

もしあなたが、『地獄の花園』のようなハイテンションな笑いを期待しているなら、今すぐ引き返した方がいい。

この映画が仕掛けるのは、もっとじっとりとした、脳を揺さぶる種類の企みなのだから。

映画「ベートーヴェン捏造」の個人的評価

評価: ★★★★☆

映画「ベートーヴェン捏造」の感想・レビュー(ネタバレあり)

主人公は史上最悪の「推し活」モンスター:捏造者シンドラーの肖像

この壮大な捏造劇の主人公、アントン・シンドラー(山田裕貴)は、控えめに言って、ヤバい奴だ。

彼はしがないヴァイオリニストで、音楽家としてはまったく大成しなかった。

その鬱屈したエネルギーのすべてを、少年時代から神と崇めるベートーヴェンへの崇拝に注ぎ込む。

現代で言うところの、度を越した「推し活」である。

しかし、ようやく出会えた「推し」の現実は、彼の理想とはかけ離れていた。

そこにいたのは孤高の天才などではなく、下品な言葉をまき散らし、金に汚く、癇癪を起してばかりの「下品で小汚いおじさん」(古田新太)だったのだ。

普通のファンならここで幻滅して終わりだろう。

だが、シンドラーは違う。

彼は、この「間違った現実」の方を、自らの手で「修正」しようと決意する。

彼の行動を突き動かすのは、純粋な愛だけではない。

ベートーヴェンに寵愛される本物の才能、カール・ホルツ(神尾楓珠)への猛烈な嫉妬。

そして、自らが音楽で果たせなかった「創造」への渇望だ。

ベートーヴェンの死後、ホルツが公式な伝記を執筆するという話が持ち上がると、シンドラーの狂気は頂点に達する。

彼はベートーヴェンが遺した唯一の一次資料である「会話帳」をすべて盗み出し、歴史をコントロールする究極の武器を手に入れる。

ここから始まる彼の「捏造」作業は、もはや芸術の域だ。

「運命はかく扉を叩く」という有名な言葉も、ソナタ『テンペスト』の逸話も、すべて彼がでっち上げたものとして描かれる。

彼は音楽家にはなれなかったが、ベートーヴェンという最高の素材を使って、「英雄ベートーヴェン」という不朽の傑作を「創造」した、もう一人の芸術家だったのかもしれない。

その動機が、あまりにも歪んだ「重すぎる愛」であったとしても。

神はゲスで、クズで、俗物だった:描かれるベートーヴェン像

本作が徹底的に破壊するのは、我々が音楽室の肖像画で慣れ親しんだ、あの苦悩に満ちた聖人のイメージだ。

古田新太が演じるベートーヴェンは、とにかく人間臭い。

いや、人間臭いを通り越して、ただのゲスでクズなオヤジである。

耳が聞こえないことをいいことに、平気で悪態をつき、金の無心をし、甥のカール(前田旺志郎)を支配しようとする。

その俗物的な言動の数々は、シンドラーが後世から消し去りたかった「厄介な現実」そのものだ。

この映画が巧みなのは、そんなベートーヴェンの俗物的な姿と、彼が生み出した崇高な音楽を、意図的に衝突させる点にある。

人類愛を高らかに歌い上げる「歓喜の歌」が、ベートーヴェン本人が癇癪を起している場面に皮肉たっぷりに重ねられるのだ。

この強烈な不協和音は、我々に痛烈な問いを突きつける。

偉大な芸術は、必ずしも偉大な人間から生まれるわけではない。

我々は作品を愛する時、その作り手までをも神格化してはいないだろうか、と。

この、アートとアーティストの間に横たわる巨大な溝こそ、シンドラーが嘘で埋めようとした亀裂だったのだ。

この「嘘っぽさ」こそが「真実」:計算され尽くした異化効果

さて、本作を語る上で避けて通れないのが、その奇妙奇天烈なスタイルだ。

舞台は19世紀のウィーン。なのに、登場人物は全員日本の俳優で、ペラペラの現代日本語を話している。

「なんだ、ただの低予算時代劇か」と思ったなら、それは作り手の術中にまんまとハマっている。

この意図的な「嘘っぽさ」こそ、本作のテーマを体現する、最も重要な仕掛けなのだ。

その謎を解く鍵は、物語が現代の音楽教師(山田裕貴がシンドラーとの二役)から生徒たちへ語られる、という枠物語の構造にある。

つまり、我々が観ている歴史劇は、あくまで「現代の日本の中学生の頭の中に立ち上がったイメージ」として提示される。

この設定一つで、すべての違和感が論理的に説明されてしまう。

日本人キャストも、現代的な口語体も、そしてヨーロッパロケではなくLEDウォールを使ったバーチャルプロダクションによる、どこか人工的な背景美術も。

すべては、これが「完全な歴史の再現」ではなく、誰かによって語られた「作られた物語」であることを、観客に意識させるための演出なのだ。

この構造は、驚くほど自己言及的だ。

我々観客は、「捏造されたベートーヴェン伝」を観るという行為を通じて、シンドラーが世界に対して「ベートーヴェンという物語を捏造して提示する」という、映画のプロットそのものを追体験させられる。

つまり、この映画は形式と内容が完全に一致している。

我々は、このスタイリッシュで面白い「嘘」の映画を楽しむことで、知らず知らずのうちに、退屈な真実よりも魅力的な物語を選んでしまうという、人間の性を肯定してしまっているのだ。

主要登場人物:壮大なる捏造劇の共犯者たち

登場人物 史実上の役割 俳優 物語における役割
アントン・フェリックス・シンドラー ベートーヴェンの秘書、最初の主要な伝記作家 山田裕貴 主人公。音楽家としては大成しなかったが、ベートーヴェンへの偏愛と執着から、その死後に理想の人物像を「プロデュース」する捏造者。その動機は愛と嫉妬、そして自己の創造欲が複雑に絡み合ったものである。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 作曲家 古田新太 崇拝の対象であり、捏造の主題。聖人ではなく、癇癪持ちで下品、金に汚い人間臭い「下品で小汚いおじさん」として描かれる。
アレクサンダー・W・セイヤー ベートーヴェンの米国人伝記作家 染谷将太 物語の探偵役。客観的な真実を追求するジャーナリストであり、シンドラーが広めた伝記の嘘に気づき、執拗にその正体を暴こうとする対立者。
カール・ホルツ ヴァイオリニスト、ベートーヴェンの秘書 神尾楓珠 シンドラーのライバル。ベートーヴェンからの寵愛を受け、シンドラーの嫉妬心を煽る。彼の伝記執筆計画が、シンドラーによる会話帳強奪の引き金となる。
カール・ヴァン・ベートーヴェン ベートーヴェンの甥 前田旺志郎 ベートーヴェンの私生活における苦悩の種。シンドラーが消し去ろうとする、楽聖の messy(厄介)な現実を象徴する存在。
ニコラウス・ヨハン・ヴァン・ベートーヴェン ベートーヴェンの弟 小澤征悦 シンドラーの伝記によって、ベートーヴェンをより悲劇的な孤高の存在に見せるため、その評価を意図的に貶められた「腹黒な」人物。
フランツ・シューベルト 作曲家 新原泰佑 当時のウィーンの活気ある音楽シーンを構成する一人として登場し、物語に歴史的リアリティを与える。
フレデリック・ショパン 作曲家、ピアニスト 藤澤涼架 (Mrs. GREEN APPLE) 現代のJ-POPミュージシャンが演じることで、本作の意図的な時代錯誤と、歴史と現代の融合というスタイルを一層際立たせる。

真実か、面白い物語か:最終対決とその冷徹な結論

物語の終盤、シンドラーが作り上げた神話が完全に定着した時代に、一人の男が現れる。

アメリカ人ジャーナリストのアレクサンダー・セイヤー(染谷将太)だ。

彼は客観的な事実のみを信奉し、シンドラーの伝記に潜む無数の嘘と矛盾を暴こうとする、真実の探求者である。

老いたシンドラーと若きセイヤーの対決は、本作のクライマックスだ。

セイヤーは、会話帳が改竄された動かぬ証拠を突きつけ、シンドラーを追い詰める。

神話を創造した男と、事実によって神話を破壊しようとする男の、知的な最終戦争。

しかし、この映画は単純な勧善懲悪では終わらない。

ここからが、本作の最も恐ろしく、そして最も知的な部分だ。

セイヤーは、人生を賭けてシンドラーの嘘を暴いたにもかかわらず、そのすべてを公にはしなかったのである。

なぜか。

彼は気づいてしまったのだ。

たとえそれが嘘から生まれたものであっても、シンドラーが創造した「英雄ベートーヴェン」の物語が、世界中の人々をどれだけ鼓舞し、感動させてきたかという事実に。

シンドラーは言う。「これは嘘じゃない。民衆が求める理想を現実にするための魔法だ」と。

歴史とは、退屈で魅力のない事実よりも、人々が信じたいと願う「面白い方」の物語が生き残るゲームなのだ。

醜い真実を暴露して世界から英雄を奪うよりも、美しく感動的な嘘を黙認することを選ぶ。

真実の探求者であったはずのセイヤー自身もまた、ベートーヴェンという物語に魅入られた、もう一人の狂信者だったのだ。

結果、捏造者シンドラーは歴史の法廷で勝利を収めた。

彼の嘘は神話となり、真実は学術の世界に封印された。

これは、現代のフェイクニュースや情報戦の本質を突く、あまりにも冷徹な結論である。

なぜ星が一つ足りないのか:本作の好みが分かれる点

これだけ知的な仕掛けに満ちた傑作でありながら、評価を一つ減点したのは、本作が極めて観る者を選ぶ「賛否両論」の作品だからだ。

最大の理由は、その語り口にある。

バカリズム脚本という看板から派手なコメディを期待すると、肩透かしを食らう。

実際は、シンドラーの独白に大きく依存した、会話中心の静かな知劇だ。

これを「展開が遅く退屈」「映画的でなく説明的すぎる」と感じる観客がいたのは事実だろう。「本で読んだ方が面白い」という辛辣な意見も、ある意味で的を射ている。

また、主人公シンドラーのキャラクターも好みが分かれる。

彼の偏愛的な執着に共感できなければ、ただの気味の悪いストーカーにしか見えず、物語に入り込むのは難しい。

これは映画の欠点というより、作り手が意図的に仕掛けた挑戦状だ。

分かりやすいカタルシスや感情移入を拒絶し、観客に知的労働を強いる。

この不親切さ、この突き放した態度が、万人受けを阻む最大の要因であり、同時に本作を唯一無二の存在にしている所以でもある。

映画「ベートーヴェン捏造」はこんな人にオススメ!

では、この厄介で素晴らしい映画は、どんな人に向いているのか。

まず、バカリズム脚本のファン、特に彼の描く、構造で遊ぶような理屈っぽい会話劇が好きな人には、間違いなく刺さるはずだ。

これは彼の才能が最も良い形で発揮された一本と言える。

次に、メタ的な構造を持つ映画が好きなシネフィル。

『アダプテーション』や『トゥルーマン・ショー』のように、物語の構造そのものをテーマにするような作品に興奮するタイプなら、本作の計算され尽くした仕掛けに膝を打つだろう。

そして、「歴史とは何か」「真実とは何か」といった哲学的な問いに興味がある人。

本作は、ポスト真実と呼ばれる現代を生きる我々にとって、極めて示唆に富んだ寓話となっている。

逆に、この映画を避けた方がいいのは、次のような人だ。

とにかく笑えるコメディが観たい人。本作の笑いは乾いていて、知的で、決して腹を抱える類のものではない。

史実に忠実な伝記映画を求めている人。言うまでもなく、この映画はそのジャンルを破壊するために作られている。

そして、テンポの速い、分かりやすい物語を好む人。本作の面白さは、じっくりと考え、作り手の仕掛けに気づいた時に訪れる。その知的ゲームを楽しめないなら、2時間は少し長く感じるかもしれない。

まとめ

結局のところ、映画『ベートーヴェン捏造』は、ベートーヴェンについての映画ではない。

これは、「物語」そのものの力と、その恐ろしさについての映画だ。

歴史上のスキャンダルという興味深い題材を使いながら、本作が本当に描いているのは、いかにして物語が作られ、消費され、そして事実を凌駕していくかという、現代的な情報戦のメカニズムである。

映画が我々に突きつける問いは、シンプルかつ根源的だ。

我々は、醜くてもありのままの真実を望むのか。

それとも、たとえ嘘で塗り固められていたとしても、人々を鼓舞する美しい神話を信じたいのか。

この映画の冷徹な結論は、我々はほとんどの場合、後者を選ぶ、というものだ。

シンドラーの嘘は、200年の時を超え、今も世界中で鳴り響いているのだから。