映画「カラダ探し THE LAST NIGHT」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!
いやはや、なんとも評価に困る映画である。
前作のスマッシュヒットを受け、満を持して公開された続編『カラダ探し THE LAST NIGHT』。
その実態は、例えるなら高級ステーキの上に、バブルガム味のアイスクリームをぶちまけたような代物だ。
ステーキもアイスも、単体なら美味しいのかもしれない。
だが、一緒に食べれば互いの長所を殺し合い、口の中に広がるのはただの不協和音。
本作はまさにそれ。
橋本環奈や眞栄田郷敦といった、今をときめく若手俳優たちの輝かしい青春模様(アオハル)と、内臓が飛び散るようなスプラッターホラー。
この二つを強引に融合させようとした結果、恐怖は青春の軽さに中和され、青春は血の匂いで台無しになるという、悲劇的な一皿が完成してしまった。
これは製作陣のミスではない。むしろ、ホラーファンと俳優ファンの両方を捕まえようとした、極めて計算高い「戦略」の結果なのだろう。
だがその戦略は、結局のところ、どちらの客に対しても中途半半端なものを提供することに繋がっている。
この記事では、なぜこの映画が手放しで褒められないのか、その構造的な欠陥をネタバレ全開で、徹底的に解剖していく。
映画「カラダ探し THE LAST NIGHT」の個人的評価
評価: ★★★☆☆
映画「カラダ探し THE LAST NIGHT」の感想・レビュー(ネタバレあり)
まずは褒められる点から
いきなりこき下ろしてしまったが、フェアじゃないので、まずは評価できる点から触れておこう。
何よりもまず、キャストの魅力は本物だ。
前作から続投の眞栄田郷敦は、今作では実質的な主人公として、ヒロインを救うために苦悩し奔走する姿を熱演している。
彼の存在が、この破綻しかけた物語をギリギリのところで繋ぎとめていると言っても過言ではない。
出番は激減してしまったものの、橋本環奈のスクリーン映えする華やかさは健在。
彼女が画面に映るだけで、作品の格が一段上がるような感覚すらある。
新キャストでは、特に安斉星来が生き生きとした演技で、ともすれば暗くなりがちな物語に一筋の光を投げかけていた。
そして、ホラーとしての「見た目のインパクト」。
これに関しては、文句なしに合格点だ。
舞台が遊園地になったことで、メリーゴーランドや観覧車が惨劇の装置と化す。
人体がミンチになったり、ありえない方向に捻じ曲がったりと、スプラッター描写のバリエーションは豊富。
「とにかくグロい画が見たい」という欲求には、120%応えてくれるだろう。
この2点があったからこそ、星3つという評価に着地した。
恐怖と青春の致命的なミスマッチ
さて、ここからが本題だ。
本作の最大の欠点、それは「アオハル」と「ホラー」という水と油を、無理やり混ぜ合わせたことによる化学反応の失敗である。
命がけのデスゲームの真っ最中だというのに、登場人物たちはやたらと友情を確かめ合い、恋愛模様を繰り広げる。
極めつけは、ヤバイTシャツ屋さんのアップテンポな楽曲に乗せて、キャラクターたちがキャッキャウフフするシーンだ。
さっきまで仲間がミンチになっていたはずなのに、この切り替えの早さは何なんだ。
観客が積み上げてきた緊張感や恐怖は、この瞬間にすべて霧散してしまう。
これは、ホラー映画における「緩急」とは全く異なる。
緩急とは、緊張の後のわずかな弛緩が、次の更なる緊張を生むための装置だ。
しかし本作の青春パートは、緊張を完全にリセットし、物語の前提すら破壊してしまう「ノイズ」でしかない。
「どうせ死なないし、なんだかんだ言って楽しそうだな」と観客に思わせてしまったら、それはもうホラーとしては失格なのである。
なぜ全く怖くないのか?―「死」が安すぎる世界
本作が絶望的に怖くない理由は、もう一つある。
それは、物語の根幹をなすループ設定そのものだ。
死んでもまた同じ日の朝に戻れる。
このルールは、本来なら「終わらない苦しみ」という existential な恐怖を描くための装置のはずだった。
ところが本作では、単なるゲームの「リスポーン(復活)地点」としてしか機能していない。
キャラクターがどんなに無残に殺されても、観客は「ああ、また生き返るのね」としか感じない。
そこには痛みも、死の恐怖も、仲間を失う悲しみも存在しない。
「死」というものが、あまりにも安っぽく、使い捨てのイベントになってしまっているのだ。
さらに、「赤い人」の描き方にも問題がある。
前作ではまだ、神出鬼没の不気味な怨霊としての怖さがあった。
しかし今作では、巨大なクリーチャーに変貌し、物理攻撃で倒せる対象になってしまう。
正体不明の呪いだったはずが、いつの間にかただのモンスターパニック映画に成り下がっている。
これでは、Jホラー特有のジメジメとした心理的な恐怖は生まれるはずもない。
原作レイプ?いいや、これは「IPの再開発」だ
原作ファンからは「原作レイプだ」という厳しい声も聞こえてくる。
確かに、キャラクター設定から呪いのルールに至るまで、原作とは似て非なるものになっている。
原作の高広は短気で喧嘩っ早い番長タイプだったが、映画では文武両道の完璧超人。
原作の恐怖の核心だった「後ろを振り返ってはいけない」といった戦略性の高いルールは撤廃され、ただ鬼ごっこをするだけの単純なゲームに変わってしまった。
だが、これを単なる「改悪」と断じるのは、少し違うのかもしれない。
これはむしろ、製作陣による意図的な「IP(知的財産)の再開発」と見るべきだろう。
彼らは、原作の持つニッチでハードコアなホラー要素を意図的に削ぎ落とし、その代わりに人気俳優、分かりやすい恋愛、ポップな楽曲といった「売れる要素」を詰め込んだのだ。
つまり、原作の物語を忠実に映像化する気など毛頭なく、「カラダ探し」という知名度のあるタイトルを利用して、全く別の、より広範な若者層にアピールする新しいエンタメ商品を創り出した。
そう考えると、この大胆な改変も、商業的には「成功」なのかもしれない。
ただ、その過程で原作が持っていた魂が失われたことは、紛れもない事実だ。
物語の破綻と続編へのため息
物語の細部にも、粗さが目立つ。
特に、明日香が囚われている異空間のセットは、90年代の特撮番組かと思うほどチープで、一気に現実に引き戻される。
登場人物たちの行動原理も一貫性がなく、「なぜそうなる?」と首を傾げる場面が多々あった。
そして、あのエンディングである。
全てが解決したかのように見せかけて、エンドロール後には案の定、続編を匂わせる映像が差し込まれる。
前作もそうだったが、これは観客に対する誠意の欠如だ。
一つの作品として物語を完結させるのではなく、次作への「つなぎ」で終わらせる。
それはもはや映画ではなく、シリーズという商品を売るための長大な予告編に過ぎない。
「呪いの連鎖」という設定は、物語を永続させるための、実に都合の良い商業的な装置として機能している。
この終わらない夜に、観客はいつまで付き合わされるのだろうか。
映画「カラダ探し THE LAST NIGHT」はこんな人にオススメ!
じゃあ、一体どんな人がこの映画を楽しめるのか。
それは、かなり限定的だと言わざるを得ない。
まず、橋本環奈、眞栄田郷敦をはじめとする出演者の熱烈なファン。
彼らがスクリーンで躍動する姿を見るためなら、物語の矛盾など気にしない、という人なら楽しめるだろう。
青春パートは、まさしく彼らのためのファンサービスだ。
次に、ホラー映画は観たいけれど、本気で怖いのは苦手、というホラー初心者。
本作はグロテスクな描写こそ多いが、前述の通り、本質的な恐怖は皆無に等しい。
絶叫マシンのような、瞬間的な刺激だけを求めるにはちょうどいいかもしれない。
友人たちと「きゃーきゃー」言いながら観る、一種のイベントムービーとしては成立するだろう。
逆に、絶対にオススメできないのは、筋金入りのホラー映画ファンと、原作のファンだ。
前者は、恐怖演出の薄っぺらさに失望するだろうし、後者は、原作へのリスペクトの欠如に怒りを覚えるかもしれない。
また、練りこまれた脚本や、一貫性のある物語を求める観客も、避けた方が賢明だ。
まとめ
総括しよう。
『カラダ探し THE LAST NIGHT』は、ホラー映画の皮を被った、若手人気俳優たちのプロモーションビデオである。
その本質は、映画館で体験する「ホラーをテーマにした体験型アトラクション」だ。
ジェットコースターのように、瞬間的な絶叫と、キャストの輝きという束の間の快感を提供はしてくれる。
しかし、映画館を出た後に、心に何かを残すような深みや、真の恐怖はそこにはない。
キャストの魅力と、気合の入ったスプラッター描写という長所はある。
だが、それらを霞ませるほど、脚本の破綻と、ホラーと青春の致命的な不協和音が作品全体を支配している。
これが、評価★★★☆☆という、なんとも歯切れの悪い結論に至った理由だ。
呪いはまだ続くらしいが、観客がこの中途半端な悪夢の続きを本当に望んでいるのか、製作陣は一度、真剣に考えるべきだろう。