映画「チェンソーマン レゼ篇」の感想・レビューをネタバレ込みで紹介!
原作ファンの間で長らく「最高傑作」と謳われ、映像化が熱望されてきた物語がついにスクリーンに解き放たれた。
その期待に違わぬ、いや、期待を遥かに超越する視聴覚の麻薬がここにある。
制作スタジオMAPPAが叩き出した「悪魔的作画」は、一瞬たりともスクリーンから目を離すことを許さない。
原達矢監督による緩急自在の演出は、甘酸っぱい青春の一コマから、都市を破壊し尽くす地獄絵図までをシームレスに繋ぎ、観る者の感情をめちゃくちゃに揺さぶってくる。
これは紛れもなく、100分間の映像エクスタシーだ。
しかし、この凄まじいジェットコースターは、果たして「傑作映画」と呼べるのだろうか?
あまりにも完璧な映像体験の裏側で、物語そのものは悲鳴を上げていなかったか?
本稿では、この輝かしい傑作が抱える、見過ごすことのできない構造的欠陥にまで深く踏み込み、なぜ本作が忘れがたい体験でありながらも、満点の評価には至らないのか、その理由を徹底的に解剖していく。
映画「チェンソーマン レゼ篇」の個人的評価
評価: ★★★☆☆
映画「チェンソーマン レゼ篇」の感想・レビュー(ネタバレあり)
この評価を見て「なぜだ?」と思った人も多いだろう。
あれほどの映像美、心を抉る物語、完璧な音楽。それらを前にして星3つとは何事か、と。
結論から言えば、本作は「5つ星の部品(コンポーネント)で組み立てられた、3つ星の映画」なのだ。
一つ一つの要素は神の領域に達している。だが、それらが組み合わさって一つの「映画作品」となった時、無視できない歪みと亀裂が生じている。
この評価は、その分裂した体験に対する、最も誠実な答えなのである。
神の領域に達した視聴覚体験 ― 5つ星のコンポーネント
まずは手放しで絶賛すべき点から語ろう。
本作の技術的な達成度は、現代日本アニメーションの頂点と言って差し支えない。
特筆すべきは、やはりMAPPAによる「悪魔的作画」である。
TVシリーズが一部で指摘された「リアル志向」の演出から意図的に舵を切り、藤本タツキの原作が持つ、荒々しくもケレン味に溢れた絵の魅力を全面的に肯定するスタイルへと回帰した。
この方針転換は大成功だ。キャラクターの表情はより豊かになり、アクションはよりダイナミックになった。
特に、柔らかな光の中で描かれるデンジとレゼのロマンスパート――夜の学校のプールで泳ぎを教える幻想的なシーンなど――と、後半の血と爆炎にまみれた残虐な戦闘シーンとの鮮烈なコントラストは、観る者に強烈な印象を刻みつける。
その映像を完璧に支えるのが、音響設計だ。
牛尾憲輔による劇伴は、物語の感情的な起伏を見事に増幅させる。
そして、マキシマム ザ ホルモンの「刃渡り2億センチ」がスクリーンに叩きつけられる瞬間、観客の興奮は最高潮に達する。これはもはや「反則技」と呼ぶべきカタルシスだ。
オープニングを飾る米津玄師の「IRIS OUT」は映画の爆発的なトーンを確立し、エンディングで流れる米津玄師と宇多田ヒカルによる「JANE DOE」は、あまりにも悲劇的な結末に寄り添い、物語が観客に与えられなかったはずの「救い」のようなものを、その余韻の中にそっと与えてくれる。
そして、この映画の魂を吹き込んだ声優陣の功績も計り知れない。
中でもレゼを演じた上田麗奈のパフォーマンスは、本作の成功を決定づけた最大の要因だろう。
天真爛漫な少女の可愛らしさ、悪戯っぽい小悪魔的な振る舞い、冷酷非情な殺人兵器としての顔、そしてその奥に隠された、愛を知らない子供の脆さ。
彼女は、この多面的で複雑なキャラクターを完璧に体現し、レゼを単なる「敵役」から、忘れがたい悲劇のヒロインへと昇華させたのだ。
物語は爆発に追いつけたか? ― 映画としての構造的欠陥
さて、ここからが本題だ。
なぜこれほど完璧な要素が揃っていながら、評価が伸び悩むのか。
それは、本作が「原作の完璧な映像化」であることに固執するあまり、「一本の独立した映画」としての構造を疎かにしてしまったからに他ならない。
第一に、物語のペース配分と新規の観客への不親切さだ。
原作読者にとっては既知の展開であるため、前半のじっくりとした恋愛描写は、人によってはやや冗長に感じられるかもしれない。
さらに深刻なのは、本作がTVシリーズの視聴を前提としており、初見の観客を完全に置き去りにしている点だ。
デンジがなぜマキマに心酔しているのか、デビルハンターとは何なのか、そういった基本的な背景説明は一切ない。これでは、物語の核心であるデンジの葛藤に感情移入することは極めて難しい。
第二に、本作の最大の魅力である「センチメンタル・ギャップ」――甘い青春ラブストーリーから、血みどろのバイオレンスへの急転直下――が、映画というフォーマットにおいては、諸刃の剣として機能してしまっている。
ページをめくる漫画では効果的なこの手法も、映像ではあまりに唐突な感情の断絶、いわば「感情のむち打ち」を引き起こしかねない。観客が積み上げてきたデンジとレゼへの愛着が、あまりにも暴力的に裏切られるため、物語から突き放されたように感じてしまう危険性があるのだ。
そして、最も致命的な欠陥は、クライマックスの処理にある。
デンジとレゼの戦いは、海に飛び込むことで一応の決着を見る。
しかし、この物語の本当の結末――レゼがマキマによって、デンジの知らぬ間に、あまりにもあっけなく排除される場面――は、主人公の視点から完全に切り離されている。
デンジはカフェで待ちぼうけを食らい、観客だけが真実を知る。
これは映画の構造として、極めて不誠実だ。観客は主人公と感情を共有できず、物語の解決(カタストロフ)から「置き去り」にされてしまう。
レゼの最期の言葉「私も学校いった事なかったの」が、誰にも届かない心の声として処理されることで、この断絶感は決定的となる。
結果として、観客は適切なカタルシスを得られないまま、消化不良の感情を抱えて劇場を後にすることになる。
本作の隠された正体 ― 史上最高の「サメ映画」であるという説
だが、待ってほしい。
もし、これらの「欠陥」が、我々が作品を見るレンズを間違えていただけで、実は意図された「仕様」だとしたら?
ある批評エッセイが提唱した、極めて説得力のある説がある。
それは、劇場版「チェンソーマン レゼ篇」が、本質的に「史上最高のサメ映画」であるというものだ。
この突飛な仮説に沿って、物語を再構築してみよう。
まず、「サメ」の存在。本作におけるサメはもちろん、サメの魔人ビームである。
彼は単なる相棒ではない。主人公に忠実な「ヒーロー側のサメ」というユニークな立ち位置を確立し、壁や地面を「泳ぐ」能力は、『スノーシャーク』のような陸ザメ映画の系譜に連なる、B級サメ映画への深い愛情を感じさせる。
次に、「竜巻」。サメと竜巻の組み合わせと聞いて、映画ファンが『シャークネード』を想起しないはずがない。
台風の悪魔が出現し、デンジがビームの背に乗って嵐の中心に突撃するクライマックスは、まさしく『シャークネード』シリーズへの高予算で壮大なオマージュそのものである。
そして、最も重要な要素が「爆発」だ。
かの名作『JAWS/ジョーズ』以来、サメ映画のクライマックスでは、サメを巨大な爆発で木っ端微塵にすることがジャンルのお約束となっている。
本作の敵は誰だったか? そう、「爆弾の悪魔(ボム)」であるレゼだ。
敵そのものが「爆弾」であることにより、本作はサメ映画のジャンル的要件を、極めて概念的なレベルで満たしているのだ。
このレンズを通して見れば、先ほど指摘した「欠陥」はすべて輝き始める。
物語の整合性よりも、瞬間的なスペクタクルの快感を優先する姿勢。
感情移入を拒絶するような、唐突で理不尽な展開。
これらはすべて、偉大なるB級サメ映画が持つ混沌としたエネルギーそのものではないか。
そう、本作は高尚な人間ドラマのフリをした、史上最も贅沢で、最も切ない「サメ映画」だったのである。
映画「チェンソーマン レゼ篇」はこんな人にオススメ!
以上の分析を踏まえ、本作を心から楽しめるのはどんな人か、具体的に提示しよう。
まず、何よりも「原作至上主義者」だ。
このエピソードが、原作の持つ熱量と狂気を一切損なうことなく、最高の形で映像化されるのを待ち望んでいたファンにとって、本作は100点満点の贈り物である。TVシリーズからの意図的な路線変更は、まさに彼らの声に応えた結果と言える。
次に、「作画フェチとアクションジャンキー」。
物語がどうであれ、とにかく最高峰のアニメーションが観たい、脳が揺さぶられるようなアクションに溺れたい、という欲求を持つ人々。本作は、その欲望を十二分に満たしてくれる。IMAXやドルビーシネマといった特殊フォーマットでの鑑賞は必須だ。
そして、「高尚な『サメ映画』愛好家」。
物語の表層的な部分だけでなく、その構造的な遊び心や、ジャンルの脱構築といった視点を楽しめる、ひねくれた映画ファン。彼らであれば、本作を唯一無二の傑作として愛することができるだろう。
逆に、本作を観る際に注意が必要なのは、「チェンソーマン初心者」だ。
前述の通り、本作は入門編としては全く機能しない。おそらく、混乱と戸惑いの100分間になるだろう。
また、「自己完結した物語を求める観客」も厳しいかもしれない。
一本の映画としてのカタルシスや、満足のいく感情的な結末を期待すると、肩透かしを食らう可能性が高い。
まとめ
劇場版「チェンソーマン レゼ篇」は、技術的には紛れもない傑作であり、物語的には重大な欠陥を抱えた問題作である。
それは、忘れがたい数々の名シーンの集合体でありながら、完璧に調和した一本の映画にはなりきれなかった、美しくも歪な作品だ。
星3つという評価は、決して本作への非難ではない。
むしろ、この作品が持つ野心的で、暴力的で、そしてどうしようもなく引き裂かれた性質に対する、最大限の敬意の表れである。
構造的な欠陥をいくら指摘したところで、デンジとレゼが過ごした、ありえなかったはずの短い夏の記憶は、あまりにも鮮烈に胸に焼き付いて消えない。
全てが終わり、一人カフェでレゼを待ち続けるデンジの後ろ姿。
そのどうしようもない喪失感と痛みこそが、本作が観客の心に残す、最も強力で、最も誠実な残響なのかもしれない。